じゃにずについて考えたり妄想したいだけのブログ

じゃにずの皆様(関ジャニ中心)について、ただひたすら尊敬の念を込めてすげーなすげーななんでだろーっていうだけのブログです。

感覚脳な人間が理系に憧れて理系に進んだ結果

ジャニーズ関係ない話をします。

昨日、関ジャニの思考プロセスの話をしたんですけど、文系右脳と理系左脳ってなんとなく同類なイメージはありませんか。いやもちろん必ずしもそうじゃないですけど。
そういや以前ツイッターで学部アンケート取ったことがあるなあとひっぱりだしてきた結果がこちら。

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結構理系の方も多いな~ってびっくりした記憶があります。わたし文系の友達と会うとき、理系ってかっこいいよねってよく言われるんですが、

……

わかります。(理系ってなんかかっこいいイメージあります)(ありませんか?)
わたしは試験管振ったりなぞの実験したり大発見したり調合したりそういう漠然とした「かっこいい」に憧れて理系進んだところあります。あと数学が致命的に苦手で日本史が好きで、高校生のときに絶対文系脳だなと思いましたので、あえて理系に来ました。
そんなめちゃくちゃ感覚脳な人間が理系に憧れて理系に進んだ結果、えっどうしよう思考回路が全然違う!!!と衝撃を受けたことがたくさんあり、それが今日のわたしの記事の書き方だとか思考に多少は影響してるのかな~と思います。

一口に理系といってもいろいろあります、研究分野でも化学系物理系数学系工学系etc...私は生物系の研究をしてました。何故かというと、他の分野は全くイメージがわかなかったからです。生物ならなんとなく理解できるけど有機化学とか見えないものの構造調べても混乱するだろうな~と予想しました。生物以外はそもそも全然わくわくしませんでした。わくわく感的にオススメですが就職的には全くオススメしません。

・プレゼン能力がちょっと上がった

『学会で研究報告をする』と『プレゼン』は違うと思うんですけど、わたしの研究室はできたばかりだったからかお金が無くて
 私「先生これ買ってください」
先生「う~ん〇〇くんの研究室から借りてこれないかなあ」
 私「先生実験にこれが必要です」
先生「なんかで代用できない?」
と言われることが多かったです。そのためか、ちょっとプレゼン能力が高くなった気がします。いろんな商品を比較して、リストアップして、論文調べて、代用の実験手法考えて、実際にやってみて、どうしてこれじゃなきゃ駄目なのか、代用品でも証明が可能か、いろんなデータまとめて「買ってください」ってお願いしにいってました。お金のある研究室だったら「いいよ」で終わるか、勝手に実験道具が揃えてもらえるんだと思うんですが。

要領の悪いわたしはどこまでやればいいのか分からず、逆に
先生「これくらい買いなさいよ!」
 私「買っていいんですか!?」
ということもありました。結局基準がよくわかりませんでした。もしはてなブログを見て認知特性の本を買ってくれた人がいるならば、それはこのよくわからないプレゼン?によるプレゼン力?のおかげかもしれません。

・考える思考のパターンがめちゃくちゃ増えた

単純なわたしだけかもしれないんですけど、以前の思考回路はこうです。

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データが出ると、わたしはそれに関していろいろ調べ、こういう結果が出た理由を考え、次の実験に備える必要があります。
上記の思考回路の時は、
こういう論文があるから、こういうデータが出たのかな。
そうだとしたらこうすればこういうデータが出るはずだよな。
じゃあ次はこういう実験をやろうかな。
と考えるんですが

まずその通りにいきません。
私の運も悪いのかもしれませんが、とにかくうまくいかなかった。
うまくいかないを繰り返すうちに心が折れてきます。じゃあもしうまくいかなかったらこうしようかな……こういう可能性もあるよな……こういう実験をやってみて出た場合はこっちででなかった場合はこっちで……となっていくと、

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こう。一個のデータからめちゃくちゃパターンを考えてさらにそこから……となっていきます。
一個一個細かくは考えてないのですが、だいたいこういうのをしようかなと考えておかないと、うまくいかなかった場合にさてどうしようかなだと時間が足りない。やばい、感覚で生きてきた人間めちゃくちゃ焦ります。これをスマートにさらーっとこなせてる人は脳の作りが違うんだな……と思います。

・事実を限定するようになった

自分のやった実験なのに同じデータが出ないということがあります。同じ風にやってるはずなのに?!と思います。基本的に論文で証明されたことは「事実」です。その手法を見ながら同じようにやってみるのですが、再現性がとれないということもあります。

いやただ単に実験が下手なこともあるんですけど。
あじゃあここを変えてみるか、こういう話があるからこれが影響しているのかも、と試行錯誤して、
『ここが違うとどうやら違う結果が出る』
ということがわかったときは泣きそうなくらい嬉しいです。あ~これでやっと実験が進む~と思います。

この結果ではっきりするのは こういうデータが出る というより、
「これが」「こういう状態のときに」「こうすると」こういうデータが出る
ということです。わたしはこの「」で囲まれた限定条件の部分って結構大事だなと思います。

論文に書いてあること、あるいは自分の実験で証明したことはある種の事実ではあるのですが、その前に()でたくさんの条件がついてることが多いです。すごーくすごく限定された条件の中の絶対を足場にしないと、たくさん矛盾が生じてきますので、ここはきちんと整理しないといけません。

例えば
(わたしのなかで)関ジャニはすごいです。
(この状況においては)こう見えます。
(過去この時点の考え方においては)発言がこうです。

……めんどくさいですよね……!?いやでも慣れたら自然とそうなるんですよ。(少なくとも私は)(思考回路の上では)
まあ読みにくいのでほぼ省略します。いろんなデータを集めてどんどん()内を少なくすると、かなり説得力のある普遍的なお話ができるんじゃないかなと思います。

・目的を見失わないでお話ししようと思った

さきほどのように何かトラブルが生じた理由がもし知りたいのなら、それ用の実験を組み立てなければいけないのですが、またそれで本質とはずれたところに不思議な結果が出て、おっ面白いなこれはなんでだろう?これも調べてみようかな?とそれに関する実験をしていくと、何が見たかったんだっけ?となる……これがいわゆる脱線です。

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よくやります。
「見たいもの」「知りたいこと」がぶれるのは理系においてはご法度だと思います。もちろんそれから派生してサブテーマができたり、うまくいかないときはそちらを突き詰めようと方向転換するのはありなんですけど、惰性と興味本位でだらだら進んでくと全く意味が分からなくなります。わたしのこのブログはだいたい「関ジャニはすごい」と示せるようなことが見たいことであり、知りたいことです。見失わないようにしたいですね。

・何の役に立つかはまあそんな重要じゃない気がした

これ社会においては駄目だと思うんですけどね?
社会においては確実に役に立つデータを集めようとします。それは遠い未来に役立つデータでも「関係なかった」というデータでも今後社会で役に立つデータを集めてます。だから最初の計画がものすごく大事です。そこさえ決まればあとはやればなんかしらは出ます。

一方、大学での生物基礎研究はなんかわからないけどある現象があって、面白そうだから調べてみたってことが多い……多くはないですか?いや少なくともわたしのところはそうだったんですけどね。「これだけ頑張ってる研究なのにこれなんの役に立つんだ……?これがわかったところで何になるんだ……?」と自分自身疑問を持ちながら、「意義は?」と聞かれ……

わからねえよこのデータがなんの役に立つか調べるのはまた別の研究だよ!!!!細胞に聞いてくれよ!!!

と思いながら無理やり研究の意義や生理的意義を考えた過去があります。
文系が理由を考えないとは思っていないのですが、文系の思考だと「何のために生まれたのか?」みたいな目的に注目すること多くないですかね…偏見でしょうか……理系の思考は「何のせいでこういう結果がでたか?」みたいなとにかく結果のまわりを固めていくイメージです。私の考える系記事の大半が「面白そうだったから調べてみました!」で目的をさらーっと流してしまうのは、そこは重要じゃないと思ってるからかもしれません。

違う意見があまり気にならなくなった

テーマは一人一人違うし、違うのが当たり前で、ディスカッションで「私もそう思います!」なんてまず出てこないので、意見が違うことに関してあまり感情がわかなくなりました。それよりもその意見が論理的かどうかみたいなところが気になったりします。ただそこに感情が乗っかってきたりすると嫌なものは嫌ですし、すばるくんの退所報道の直後とかは違う意見が辛くて見れなかったりしたので、「あまり」気にならないって感じです。でも多分前よりずっと楽になってるんだろうなと思います。

・事実から推論するようになった。推論から推論はよくない

人から聞いたことは話し半分に聞くってのも大事にしてます。信じないわけじゃないです、話半分です。
ある実験をやるとき、それをやったことがある先輩にやり方を聞いたんですが
「ほんとはこういうのは人から聞かない方がいいんだよ」
と言われました。そのときは効率が悪いのでは?と思ったし、もっとコツは情報共有していけばいいのに!と感じましたが、のちのち研究においては先輩の考え方の方が妥当?適切?と感じました。
といいますのも、トラブルシューティング力や考える力が弱くなるから、情報量が少なくなったり先輩の主観の影響を受けるから等々、後々のデメリットが大きいのと、責任の所在が他人になるからです。もちろん、ものによりけりです。独自ルールについては聞かなきゃわかりませんし、聞いた方がその場の効率がいいのは確かです。しかし同時に、自分で大元から調べて考えるというのも大切なことです。

私自身はできるだけ本人の発言様子を自分で確認したものをもとに考えたいなとは思ってます。とはいえ、わたしのやってるのは研究ではないので、まぁ趣味だし!曖昧な主観で、まあいっか!となることが大半です。(もともとが感覚で動く人間だから……)ただしそのときも心は常に、「これは真実ではない」という意識をもつようにしてます。気構えの問題ですが。

ちなみにたいていの論文は要旨序論手法結果考察で構成されますが、先輩は参考論文として使うときはほぼ手法と結果しか見てなかったです。人の主観や感情を介した言葉は、なにかの理由としては不十分なんでしょうね。

あと、可能性が示唆されると言うとき、
可能性がある(1/2)×示唆される(1/2)で25%くらいの確率だと思った方がいいと言われました。もっともらしい言い方をしますが、生物系ってかなりあいまいな分野です。有機系や物理系数学系といった安定したはっきりとした数字がある分野からよくつっこまれるのを嫌って、生物系の理系は断言できる部分をとことん削ります。(わたし感覚調べ)

・いろんなものを関連付ける発想力がうまれた

データが出る→報告→指示を受ける→調べる考える→やる
というパターンを繰り返す研究室もあると思うのですが、わたしの所属先は完全放置でした。
データが出る→調べる考える→報告→やる
でした。指示が無いので、もうほぼ自分で考えてやるしかないやつです。「こう考えるけれどどうですか?」はOKですが「どうしたらいいですか?」はNG、というより答えがもらえませんでした。初めて研究に触れる人間は途方にくれました。なので、とにかく手当たり次第に論文読んだり、他の人の全然関係ない実験を観に行ったりするわけです。これもらってこれ見たら面白いんじゃないかな。この論文とこの論文から考えるとこうだけど、証明はされてないから見てもいいかもな。とか、もう発想力勝負。最先端の研究や高度な研究は能力的にできないので、重箱の隅をつつくように誰もやってないところをやってました。まさにわたしの記事はそんな感じです。あと自分でテーマ決めて論文集めてレビューを作ったりするゼミがあったので(大抵実験がうまくいかない鬱憤を晴らすために全然違うこと調べて現実逃避してました)、そういうときの感覚が役に立ってるのかも。

・心のなかに反論者を持つようになった

前よりはディベート強くなった気がします。相談するたび「これは見たん?」「バイアスかかってない?」「ここ矛盾しとらん?」と聞かれるのでもうなんか心の中に先輩がいるような錯覚になりました。(ノイローゼか……?)
わたしが「こうかなー」と思った時には「じゃあこうやったらなんでだめなん?」「こういう可能性は考えられんの?」、得られたデータに対しても論文についても「ほんまに?」「ほんまに?」と疑います。批判的吟味というやつです。批判的って言い方が悪いんですけど、健全な批判的吟味に感情は乗っかってません。純粋に客観的に「なんでなん?」となるので、その議論が終わったら全然あとくされもなくケロッとしてます。それはそれ、これはこれでこの根底のサバサバ感が共有できてると本当にやりやすいです。合理的で無駄が無い、そういう人はもちろん文系にもいますよね。ディベート強くなりたいオタクは、心の中に錦戸さんを持てばいいんじゃないかなあ。


理系楽しかったですよ。理系?理系というより研究室が楽しかった?研究室……楽しか……った……?(自信がなくなってくる)(辛い思い出)(深夜に灯る研究棟の明かり)ただ、絶対文系のままだったらできなかったであろう考え方や視点を身につけた気がします。理系脳の方から見たらわたしは、まだまだまだまだ感覚で物を捉え感覚で物を話す人間なんでしょうけど、文系脳の人は理系に、理系脳の人は文系に行ったら新鮮な感動があって、視野が広がるんじゃないかなと思います。