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じゃにずの皆様(関ジャニ中心)について、ただひたすら尊敬の念を込めてすげーなすげーななんでだろーっていうだけのブログです。

「関ジャニは倫理」について考える

 関ジャニは「お笑い寄りの」「アイドルらしくない」と世間の一部に思われているであろう、ジャニーズのアイドルグループです。2018年4月15日、関ジャニが誇るメインボーカル渋谷すばるさんの脱退が発表され、関ジャニオタク界隈は動揺、絶望、やり場のない思い、憤り、悲しみ、さまざまな気持ちを抱えて、世間から話題がなくなってもなお苦悩しながら渋谷さんの脱退7月15日までの3か月を過ごしてきました。

  しかし7月15日、渋谷さんが関ジャニからいなくなるあの瞬間、「好きにならなければよかった」と述べているファンは極端に少なかったように思います。「好きになってよかった」「彼らのファンでいることが誇らしい」と感じさせる、関ジャニの魅力はきっと「アイドルらしさ」由来の感情を越えたものです。


 「関ジャニは倫理」これは『ここは今から倫理です』第二巻後書きに書かれている大学教授の言葉です。

 

教授「マンガは倫理だと思ってるんだ」

作者「マンガって倫理なの!?」

教授「ジ◯◯ーズも倫理だと思ってるよ」

作者「◯ャニー◯も倫理なの!?」

教授「特に◯ジャ◯が倫理だね」

作者「特に関◯◯ニが倫理なの!!?」

 

 わたしはこの言葉がずっと心に残っていて、意味もよくわかっていないくせに、ことあるごとに関ジャニは倫理だからと言ってきました。

 倫理とはなんでしょう。

 ググっていくつかの意見を参考にして、倫理とは「私がより善く在るための指針」と仮定義することにしました。倫理を道徳とイコールと解釈する説もありますが、わたしは若干異なるものと解釈し、話を進めていきます。道徳は社会にとっての「正しい」「正しくない」がある、絶対的な基準です。一方で、倫理は「私が」「より善く在る」を導く指針であり、道徳的な「正しい」を導くこととは必ずしも一致していません。

 自分について思い返してみると、わたしは何かを選択するとき、己の信念のような指針に照らし合わせて決断しているような気がします。自身に胸を張って己の決断を示すことができるか、この状況ならどうするのが最適なのか。AならばBというマニュアルが無数にあるというよりは、情報をインプットすれば、自分なりのそのときの最適解がアウトプットできる、柔軟性をもったコンピューターのようなものがあります。それが倫理なのかなと思ってます。

 それを踏まえて教授の言葉を読み返してみます。マンガの熱い主人公に触発されて新しいことを始めてみる。ジャニーズアイドルの眩しい姿に心打たれてより善いファンであろうとする。どうしたら彼らのようになれるのか考えてみる。そういった事象をもって、教授は「関ジャニは倫理」と言ったのではないかと考えました。 


 さて、関ジャニは倫理という言葉をはじめて聞いたとき、わたしは「関ジャニの7人の立ち振舞いがこうありたいという指針である」という意味に捉えました。関ジャニの姿を見ていると、こうでありたい、という思いがわいてきます。自己啓発本を買うお金で関ジャニを見ればいいのになぁと思うくらい、自己啓発性の高いアイドルです。

 渋谷さんの会見には「異例のメンバー同席での脱退会見」という見出しがつきました。休止でも解散でもないのに他のメンバーが来ました。笑顔がほとんど無くて、渋谷さんの隈も横山さんの泣きはらした顔も痛々しくて、いつもの明るい彼らではなかったけれど、これ以上ないくらいに関ジャニらしさに溢れていました。大倉さんの「それは日本にいてもできるんじゃないか」も、横山さんの「関ジャニ∞と一緒に夢を見ることはできひんのかな」も、「すばるが抜けた関ジャニ∞は想像つかなかった」も、錦戸さんの「ジャニーズ事務所という大きな事務所の中にいて守られているんだ」も全部、どこかにいるファンの叫びを代弁してくれているように聞こえました。

「僕たちの人生はそのまま続くわけではなくて、変化するわけで」

「その上での決断なのかという質問をした時に、「それは申し訳ないけれど、自分の人生を優先させてもらった」というのを聞いて」

「俺らのことを考えた上での決断なら僕らはもう言うことはないですね」

 会見で終始ふてくされていた大倉さんの発言・行動は「客観的事実」と「他人の考え」と「自分の感情」のどれもが尊重されています。「俺らの人生も変化する」というのは、厳しい言葉ですが仕方のない事実のひとつです。大倉さんは事実を伝え、その上で変わらない渋谷さんの決断を受け止めました。そう、大倉さんは受け入れられないと言いながら、「すばるくんの考えが間違っている」と否定しているわけではなかった。その一方で、納得できないという自分の感情を譲らず、己の態度を貫いていました。
 他人の行動は他人のもの、自分の行動は自分のもの。大倉さんを始め、関ジャニの人たちは常日頃からそういう考え方を根底においているような気がします。ひとつのコミュニティで全員がこの思想を持っていることは、人間関係が必要以上にこじれやすい社会において、とても得難く理想的なことのように思えます。

 会見の翌日、憔悴しきった顔だった横山さんはきっちりヒルナンデスに出て笑顔で仕事をしていましたし、その姿を見て、辛いけれどもわたしも仕事へいこうという気持ちになりました。また、渋谷さんの決断も、多くのファンに自分の人生を再考し新たなことにチャレンジするきっかけを与えたことでしょう。

 わたしにとってのこうありたい、こうあるべきという指針、倫理は7人の姿と実によくオーバーラップします。ある人にとっては6人、ある人にとっては7人、ある人にとっては8人という、関ジャニのメンバーそのものが倫理的存在に映ることでしょう。

 しかしメンバーが欠けたとき、彼らは言います。何人だろうが関ジャニ∞だと。
 関ジャニのメンバーや彼らの行動が倫理そのものであるなら「何人であろうが関ジャニ(倫理)」というのは成り立たないように思います。 

 前述の通り、わたしのようなファンにとっては関ジャニのメンバーが、彼らの行動が「倫理」にうつります。じゃあ彼らにとっての関ジャニとはなんでしょう?何人でも関ジャニと言えるのはなぜでしょう?関ジャニ関ジャニたらしめるものとはなんなのでしょう?

 関ジャニ関ジャニたらしめるもの。それは、「倫理」なのではないでしょうか。最高で最強を目指すための倫理。わたしが関ジャニの姿に倫理を見て行動を省みるのと同じように、彼らもまた、関ジャニという倫理を己の行動に反映させているのではないでしょうか。ふとそんな風に思ったのです。
 

※以降、まぎらわしいので関ジャニはメンバーを指すとし、関ジャニ(倫理)は関ジャニとしての倫理と記載します。


 渋谷さんが言っていた「仲が良いけれど仲良しこよしじゃない」といったニュアンスを思い出します。わたしは、関ジャニは、個人の倫理と同時に、関ジャニとしての倫理を持っていたんじゃないかなと思います。当時快進撃を続けて底の見えなかった関ジャニとしては「渋谷さんの脱退」が避けられるのなら、それがベストだったことでしょう。音楽の面でもバラエティの面でも、彼の存在はとても大きいものでした。
 会見での態度や、ことあるごとに「7人で」を強調してきた安田さんの発言を踏まえると、あがいて、食い下がり、それでも止めようがなかっただけで、彼らはわたしたちの目に映る以上に渋谷さんを止めようとしたはずです。彼らが最高で最強の関ジャニであるために。

 6人でコンサートを開催すること。これに対し個人の「賛成反対」の意見はあって当然ですが、道徳の問題と違って、選択の時点での「正解不正解」はありませんでした。しかしきっと彼らは関ジャニとしての倫理に基づいて「6人ですべき」と判断して、渋谷さんも、個人としてやりたい気持ちはあったかもしれないけれども、「6人ですべき」という気持ちを理解してくれたものという気がしています。

 コンサートはほぼ一年に一回で、一部の人しか来ることができません。今回のコンサートを7人でやれば、当然ファンは「すばるくんの最後」として見ることになります。
 もしわたしなら、自分が行けなかったらとても悲しい。行けたとしても、7人のパフォーマンスが良ければ良いほど、これからの関ジャニに不安を抱きながらずるずると悲しみを引きずってしまいます。安田さんはこれでよかったのかは分からないとおっしゃっていました。でも、きっと一年に一度のコンサートを「あぁやっぱりすばるくんがいるコンサートは最高だな」という結論で終わらせるのは、これからも続く「関ジャニ」の倫理には当てはまらなかったのではないかと感じます。

 個人の感情を素直に書くならば、一秒でも長く7人の姿を見るチャンスがほしかったです。しかし、テレビで7人の姿が終わり、渋谷さんが関ジャニを離れると同時に6人のコンサートが始まることが、彼らの考える「関ジャニのベスト」だったというのも、なんだか納得できるのです。

  わたしが特に印象に残ったことのひとつにスバラジと倉橋ラジオでの発言があります。「6人はファンの皆さんに対してどうしようって考えたはずなんです絶対それはもう」と言い切る渋谷さんと、「すばるくんももちろんそういう(内くんの脱退)経験してるからその気持ちももちろん十分分かった上でのこの結論だし」と言い切る大倉さん。言い方と内容からして、多分この話をお互いに確認したわけではないと思います。ただ、きっと、わたしが思ってるよりずっとずっとお互いの倫理を分かっていて、その上で関ジャニとしての倫理を共有しているからこそ、こんなに確信に満ちた言い方ができたのだという気がします。

 渋谷さんという個人にとっては、自分の自由と責任で音楽を全うすることが倫理でした。しかし同時に、関ジャニとしての倫理に即して考えたときに、自分という個人がやりたいことのために関ジャニというグループは歩みをとめるべきではないとも考えていたのではと思います。実際6人は歩みを止めませんでした。関ジャニのメンバーは個性がバラバラで、やりたいことも、感情も、価値観も違うのだろうけど、根底の深い部分は何かを共有しているのだろうなと感じていました。「7つ根っこで引っ張り合って」の根っこは、関ジャニとしての倫理のようなものだという気がするのです。

 わたしは、このファンという立場から感じる彼ら一人一人の倫理も、関ジャニとしての倫理も好きです。また、彼らの選んだ道を、彼らがすべきだと考えていることを、時に感情面で共感できなくても「信頼」しています。正解不正解のない世界で彼らが悩んで選んだ道を肯定したいなと思うのです。

 GR8EST コンサートDVDの本編から見えるように、彼らの関ジャニとしての「より善く在る」は、きっとかっこよくいること、ファンを引っ張っていくこと、ファンに誠実であること、そんなところに反映されています。しかし同時に、あくまでも彼らは人間なのだということも、メイキングを見ればわかります。これだけ冷静に関ジャニとしての倫理を共有しながら、自分勝手な思いを優先させた彼を嫌いになれず、こうあるべきだと思いながらも寂しくて涙を流し、 心身ともにしんどくても出ていく仲間の背中を笑顔で押した。模範的になりきれず、個人の感情を優先させてしまうところも、アイドルファンとしては愛しさを覚えます。

 話が少し脱線しました。とにもかくにも、彼らが形にする関ジャニの倫理は、わたしのより善く生きる方法の道標にもなっています。やはりわたしにとって関ジャニは理想的なアイドルであると同時に、倫理なのでしょう。そして彼らにとっても、関ジャニという箱そのものが倫理なのでしょう。

 一年近くずっと考えていた、関ジャニは倫理だなぁと思った話でした。どなたか教授を呼んできて正しい講釈をお願いします。