じゃにずについて考えたり妄想したいだけのブログ

じゃにずの皆様(関ジャニ中心)について、ただひたすら尊敬の念を込めてすげーなすげーななんでだろーっていうだけのブログです。

楽しくオタクするためにアドラー思想を参考にした

 ブログを開設して一年がたとうとしている。ツイッターもそのくらい。関ジャニが節目節目で肉を焼いてきたように、節目節目でジャニオタとしての話をしたい。

 先日、オタクとSNSについての心に突き刺さる記事を発見した。


yunokihana.hatenablog.com


 この記事にかかれた心情、隅から隅まで共感しかなく、今までの気持ちを総括してくれている気がした。そしてこの記事を読んでいて、私はアドラーの嫌われる勇気を思い出した。

 『個人のスタンス語り』に、かなり強気のタイトルをつけた。専門家から見たら癪にさわるような矛盾も含まれているかとは思うが、あくまでも自己解釈で自己啓発している。これがアドラーの本質だとは思わず、自身で読んだ上で参考にするか考えてほしいと思う。

SNSって難しい

 一年前の自分のツイートを遡ると、変わってはいないと思っていた自分にもだいぶ変化が起きていたんだなぁと感じる。フォロワー0だったときは私しか見ていなかったので、マナーなんかあまり気にしなかったし、ぽんぽん思ったことを呟いていたし、記事の文章も今より断定の表現が多い傾向がある。そのうちぽつぽつ相互さんができて、内輪でのノリで書いたことが、面白いって言ってもらえて、それがとても嬉しくて次の記事を書こうかなという気持ちになった。松原.のラブレターの言葉を思い出すたびに、私はこのころ書いていた記事を思い出してしまう。

 ある記事をアップしてから今までからは考えもつかないくらい記事がいいねRTされて、嬉しい反面怖くなった。叩かれるんじゃないかということ、私の不確かな解釈がその人の解釈になってしまうんじゃないかということ、次の記事のアイデアがでないということ、何もかもがいきなりすごく不安になった。どこまで回っていったのかわからないツイートの読み手に勝手に気をつかって、勝手に滅入ったりしていた。もともと気にしいでヘタレなので、SNSは向いていないと思っていたけれど、ジャニーズの話をできるのはツイッターとブログだけなのでやめたくはなかった。フォロワーが減るたびに何かしてしまっただろうかと悶々としていた時期だ。

・学級会恐怖症

 ツイッターでコミュニティができればまぁ仕方ないことかもしれないが、私はいわゆる学級会が苦手だ。人それぞれという結論に至るのに、答えがでないものに時間をさいて、ギスギスする空気が好きじゃない。「人それぞれだけど」という前置きをしながら、その実マウンティングのような圧の強い呟きが怖い。もちろん配慮で「人それぞれ」をつけることもあるし、表現に気を付けた上で諦めのように「人それぞれ」をつけることもあると思う。私もそうすることが多い。ただ、他の人の目を気にして、楽しいはずの趣味にこんなに疲弊しなければならないのかという悲しさも常にあった。

 じゃあ人の目を気にしていない呟きをしたいのかと聞かれれば、いやそれもなんか違う、と思う。少なくとも私は攻撃的なツイートが怖い。他の人の意見を許さない人のツイートが怖い。その人のファンの目の前で愚痴を言っている情景を、リアルに想像しては怖くなる。だから私はそんな風にはなりたくない。言葉のドッヂボールじゃなくてキャッチボールがしたい。私はそう思うけど、相手に「呟きだから」と発言の自由を行使されたらなにも言えなくなるのも確かだ。

 そしてマナーについて考える機会が不要だという極論を言いたいわけでもない。他の人の呟きを見てそうだなと気を付けるようになったことがたくさんあり、それはそれでよかったと思う。しかしどこからがOKで、どこからが駄目なのか、はっきりした定義を作るのは難しい。そもそも一ファンが解答するもんでもない、という思いがある。

 SNSには自由も責任もあるのに、どちらかだけが取り上げられやすい。確かなのは自由もあり、責任もあるということだけで、その基準はみんな違う。それはいいことでも悪いことでもなく単なる事実だと思う。しかしその事実を踏まえて私は結局どうしたいかというのは、毎度毎度分からなくなる。

 上記のように、自分には、「この人はこう考えてるからそうなのかもしれない、言い分もわかるな」とあらゆる意見を考えようとする性質がある。そして半年ほど前の自分は、その意見をすべて満たした人間になろうとして疲弊していた。めんどくさいと思いながらも、意見を言うほど強気になれず、それを言った後の人の目が怖いから、そこまでして言いたいことでもないかな……と思いこみ……ツイッターの裏で愚痴愚痴ぐだぐだ考えていた。実にめんどくさいオタクであった。(今も自分に関してはなかなかめんどくさいと思う。)

・変わる気がない

 アドラー哲学は言い訳を許さない。トラウマを否定し、自分がそうしたいからそうしてるんだという考え方をする。その理論でいくと、わたしは『苦しい思いしたいから』今の状況にいることになる。

 注意しなければならないのは、アドラー心理学において変えるのは「他者」ではなく「自分」であるということ。私は愚痴アカも攻撃的なアカウントも好きではない。でも突撃していって「私が楽しくないのでやめてください!」って言うのは我慢でもなんでもなく、したくない。「改心」してハッピーエンドになるかといえば大半はそうではない。その人にはその人なりの愛し方を持っていて、それが正義だと思っている。無関係な他人に踏み荒らされたところで、いくらそれが「正論」だったとしても、かたくなになるだけだと思う。
 私はそういう不毛な争いはやめたい。小学校の学級会は互いの意見をフラットに聞くのが当たり前だった。しかし、テレビでやってる議会は、揚げ足とって他人の意見をあまり聞く気がないように見える。ツイッターも基本的に一方向コミュニケーションなので、しかたないとはいえ後者のようになりやすい。相手と自分の両方に聞く気がなければ、突撃していって会話をしても多分結果は変わらない。

 そこで私は、嫌われる勇気に出てくる以下の二つの項目をなにかにつけて意識するようにしてみた。
 

①課題を分離する事
 信じるという行為もまた、課題の分離なのです。相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。アドラーの語る「愛のタスク」にはそこまでの問いかけが含まれています。(嫌われる勇気より)

②貢献感に幸せを感じる事
 他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は他者の期待を満たすことをその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
あなたの貢献が役立ってるかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。本当に貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てればそれで良いのです。(嫌われる勇気より)

自己洗脳といったら自己洗脳なのだけれども、多分行動には変化が起きてないと思う。
良くも悪くも、ただただ私が楽になっただけである。

・解釈違い、愚痴

 自己と他者の分離は、他人はどうでもいいという冷たいことばではないと思う。他の人を拒否するのではなく、自分の課題と相手の課題を分離する、ということだ。前者は私と相手が違うことをネガティブに捉えているけど、後者はフラットに捉えている。私がこういう考え方であることと、相手が違う考え方であることは全く関係ない。相手がこうだから私が何かをしなきゃいけない!とも思わないし、共感してもらえないから相手に考え方を変えてほしい!とも思わない。そういう風に捉えようと心掛けていたら、いけがみさんのように、たいていの解釈違いは「いい意見ですね~」と思うようになるし、愚痴アカ、悲観的なアカも「私は苦手だから見ません!」という単純な好みの話として処理できるようになってくる。

私が上に挙げた記事からアドラー哲学を感じたのは、
・自分とは違う人のことを批判しようとかではなく、理解しようと本気で考えたこと。
・相手と自分を尊重しようと考えていること。
・でもそこすらも分かり合えない事実を受け止めて、したらいいのにとは思っても、変わることを他人に強要しなかったこと。
・ただ、自分が悲しいと思った事実を誰にも否定させないと言い切ったこと。
このへんである。自己と他者の分離とはまさにこういうことだと思う。

 記事の例にあるように、「○ね!」とかはおかしいと思う。「人それぞれ」を免罪符にしてるし、絶対見習いたくない。でもアウトセーフを決める基準を誰が決められるというんだろう。「私はやっぱり嫌だ」としか言えない。誰かが批判する人は誰かの好きな人だ。私の好きな人がそんな風に言われたら悲しい。
 同時に、そういう人たちが変わらないことを受け入れている自分がいる。その人たちなりの論理がある。私にとって、他人が変わったらいいなぁと、関ジャニが彼氏だったらいいなぁは同じくらい非現実的な夢物語である。可能性は全くの0ではないが、その期待を押しつけて「裏切り」に胸を痛めるのはお互いとてもしんどい。それを踏まえた上で私ができることは、でかい声で「関ジャニが好きだ~~~!!!関ジャニかっこいいよ~~~~!!!!」と叫ぶことだと思っている。叫ばせてほしい。

・ブロリム

 私をブロックする人も、リムーブする人もいる。批判する人もいるかもしれない。ブロックされたら「私」の「見る」という行為もできなくなってしまうから正直辛いし凹むと思う。でもブロックはその人の課題で、辛いという気持ちは自分の課題だ。ポジティブな諦めを身に付けて、どうしようもないことに落ち込む時間を短くした方が楽しい時間は長いから、私はあまり沈んでいたくない。相手は私の悲しみに責任をとってくれない。怒りや悲しみのエネルギーを、関ジャニが好きっていう楽しい時間に使いたい。ニコニコ顔で「ブロックリムーブご自由に!!」とは言えないが、ブロックリムーブが自由なのは当たり前だと受け止めている。

・チケツイ

 私がチケット落選して、だれか他のファン(転売除く)が当選したときも素直に喜べると思う。その人が外れたら確率はほんの少し上がっていたかもしれないけど、私が当たったかはわからないし、なんにせよ今現在の結果は変わらない。その人が当たることで、嬉しい空気をTLに振り撒いてくれた方が、なんだかチケツイ一般頑張るぞと前向きになれる。
 壁打ちのときから、フォロワーが多い人が譲られやすいということについても、譲り条件に担当があっても、まぁそうだよね!というあっけらかんとした思考回路でいる。アカウントがしっかりしてると、トラブルになりにくい。絶対に楽しんでくれる人がいい。憧れのあの人と行ってみたい。どんな人に譲るかは、譲る人の課題だ。そして譲られる側も、本気で行きたいなら遠慮しないで声をあげ一般に望むのが譲られる側の課題だ。多分条件に見合わなければ、譲る人が弾いてくれる。そして譲られなくても憤る必要はない。(何度も言うが転売は除く。)

・アイドル

 同じようなことを関ジャニにも思ってる。恋愛スキャンダルが起きたらちょっと切ない。でも私の気持ちと関ジャニの行動には全く関係がない。嫌なら見ないように、言及しないように。私ができるのはそこまでだ。露骨に憤りをぶちまけて、周りをギスギスした空気にする方がよっぽど嫌だなと思ったので、マイナス発言はしないようにしてる。
 私は関ジャニに不満を持つこともほぼない。何事も都合よく変換して楽しませてもらってる。批評も専門家がすれば良いと思ってるので、私は私なりに誉めちぎる。マイナスな感情を抱くこともあるけど、言及のしかたは考える。嘘はつきたくないけど、ピックアップする感情は選ぶ。彼らは楽しませようとしてくれる。そして私は全力でそれを受け取りたい。とにかく楽しくオタクしたいという非常に利己的な信念がある。そのためなら多少の気遣いなんのその。
 私はアイドルとして関ジャニが好きなのだが、それ以上に人として彼らが好きだ。人としての振る舞いを望んでも、アイドルとしての振る舞いは正直プラスアルファだと思ってる節がある。ただ、これは本当に人の好きのなり方次第なので、アイドルを求めてしまうこと=悪だと捉えているわけではないことを主張しておく。アイドルという職業の線引きは人それぞれだ。

・担当

 私は今まで自分の好きな人に担当という言葉を使ってない。この担当問題によく葛藤していたのだが、最近は、ほしいな~~~ほしいな~~~と思う以上にほしくないんだと思うようになった。担当という言葉の定義が、ジャニオタと広辞苑では違ってると分かってるものの、やっぱり担当というのに抵抗がある。好きのはじめと終わりを区切りたくない。自担って言いたい、それ以上に言いたくない。そんなめんどくさい自分ですら、悩みたいから悩んでるんだなと暖かい目で(?)見守れるようになった。
 何度か担当ほしいなぁ~もう担当っていっていいんじゃないかな~期がきても、もはやなかば意地で名乗っていない。でもその気になったら名乗れるという心の余裕が、自由に生きて愛しなよという関ジャニの言葉が、私を楽にさせてくれているなと思う。

・フォロワー

 フォローしてくれてる人も、ブログ読んでくれてる人も、私と同じ「関ジャニが好きな人」。わざわざ見てくれてるくらいだから、私の一部の文章だとか、何かしらを気に入ってくれてるのだと思うけど、そこを「自分を好きな人」という関係でとらえ始めたら私はきっと迷走する。
 アドラーは承認欲求を認めない。自分も多分それで疲弊したので、自身は「なるべく」承認欲求をもたずに、フラットでいたいと思う。誉めてもらえるのはめちゃくちゃ嬉しい。承認に対する喜びは常にある。でも、それを目的にしたら関ジャニのファンアカウントじゃなくて自分のファンアカウントになる。あくまでも関ジャニについてのアカウントとして生まれて消えたいなと思っている。
 ブログを書いて、タグもやる。ただその理由は「貢献感」に対する欲にすりかえることにしている。何かをやるとき心の片隅に楽しんでもらえそうなものにしたいなという思いがあるし、やること自体に満足感を感じている。私の思うカッコ悪い呟きはしたくなくて、でもストレスも貯めたくない、というワガママをかなえてくれるのが、この貢献感なのかなと思う。

自由に生きて愛しなよ

 アドラーの解釈は、下手したら自己中心的にうつる。私も初めて見たときはその傲慢さに、そういう人がいるからTLが荒れるのだと思ったし、実際、自分に素直に生きれば良いんだ!とだけ受け取ってしまう人もいるんじゃないかなと思う。

 でもそういうことじゃない、と私は解釈している。アドラーは人のことを考えることを推奨している。その上でアドラー哲学は「人それぞれ」を悲観的にとらえない。「誰かのため、~せねばならない」という無意識の責任転嫁を許さない。「~のため」にしてしまうと、自分の思い通りにいかなかったときに勝手に憤るしかできない。でも「実際その人のためになるかは分からないけどもしかしたら喜んでくれるかもしれないし、そんな手間でもないからやりたい」という自分の欲求として捉えれば、嫌ならやらなければいいという心の余裕を持ちながら、楽しい呟きを心がけてる自分偉い!という自己肯定感まで得ることができる。考え方ひとつなんだけれど、とにかく楽に生きれる。
 以前は「お花畑(笑)」と呼ばれることに「そうだよね……ごめんね……」としょげていたが今はたぶん「うるせ~~~~~~!!楽しんで何が悪いんじゃ~~~~~~!!!!!」と開き直っている。(第三者的にこれがいいのか悪いのかは本当に分からない)
 共感は嬉しいけれど重要じゃない。私が満足するかが大切で、その満足感が楽しいオタクには必須なのだと思っている。

苦しむために生きないで あなた自身を愛してくれ

 私や誰かと同解釈じゃないなら、関ジャニを好きだなっていう気持ちをその人と分離すればいい。自分のスタンスは、誰のためでも、誰のせいでもない。同時に、誰かのスタンスも、私のためでも、私のせいでもない。ジャニオタ界隈には、楽になりたいけどああはなりたくないと言って、がんじがらめになっていく人がいる。仕事ならともかく、そんな疲れた気持ちに鞭打ってでオタクをするのはもったいない。アドラー思想は、自分の行為はそのままに、気持ちだけ楽にさせてくれる気がする。おすすめしたいのだが、こういう書き方すると宗教の勧誘みたいになってしまうから困る。そのようなあれではない。

 そして読んでくれた方のなかに、私と違う思想の人はいると思う。「こんなこと思ってたんかい!」とリムブロされる可能性もあるから、意見をいうことはすごく怖いし、大して楽しくもない。味方もできるだろうが敵もできる。だからヘタレで楽しいオタクでいたい私はツイッターではあんまり考えをのべない。でもまぁ素敵な記事に感銘をうけて、せっかくだから自分もたまには自身のことについて語ろうかと思った。だれも攻撃する気はないことだけ分かってほしい。

 もともとはネガティブな人間だ。でもどうせなら楽しまなきゃ損だと思って考え方を変えた。
 私は関ジャニが楽しくアイドルできて、みんなが楽しくオタクできる世界が一番幸せだと思うし、そういう世界に住みたい。そんなことを内心考えながら、SNSに生息している。