じゃにずについて考えたり妄想したいだけのブログ

じゃにずの皆様(関ジャニ中心)について、ただひたすら尊敬の念を込めてすげーなすげーななんでだろーっていうだけのブログです。

楽しくオタクするためにアドラー思想を参考にした

 ブログを開設して一年がたとうとしている。ツイッターもそのくらい。関ジャニが節目節目で肉を焼いてきたように、節目節目でジャニオタとしての話をしたい。

 先日、オタクとSNSについての心に突き刺さる記事を発見した。


yunokihana.hatenablog.com


 この記事にかかれた心情、隅から隅まで共感しかなく、今までの気持ちを総括してくれている気がした。そしてこの記事を読んでいて、私はアドラーの嫌われる勇気を思い出した。

 『個人のスタンス語り』に、かなり強気のタイトルをつけた。専門家から見たら癪にさわるような矛盾も含まれているかとは思うが、あくまでも自己解釈で自己啓発している。これがアドラーの本質だとは思わず、自身で読んだ上で参考にするか考えてほしいと思う。

SNSって難しい

 一年前の自分のツイートを遡ると、変わってはいないと思っていた自分にもだいぶ変化が起きていたんだなぁと感じる。フォロワー0だったときは私しか見ていなかったので、マナーなんかあまり気にしなかったし、ぽんぽん思ったことを呟いていたし、記事の文章も今より断定の表現が多い傾向がある。そのうちぽつぽつ相互さんができて、内輪でのノリで書いたことが、面白いって言ってもらえて、それがとても嬉しくて次の記事を書こうかなという気持ちになった。松原.のラブレターの言葉を思い出すたびに、私はこのころ書いていた記事を思い出してしまう。

 ある記事をアップしてから今までからは考えもつかないくらい記事がいいねRTされて、嬉しい反面怖くなった。叩かれるんじゃないかということ、私の不確かな解釈がその人の解釈になってしまうんじゃないかということ、次の記事のアイデアがでないということ、何もかもがいきなりすごく不安になった。どこまで回っていったのかわからないツイートの読み手に勝手に気をつかって、勝手に滅入ったりしていた。もともと気にしいでヘタレなので、SNSは向いていないと思っていたけれど、ジャニーズの話をできるのはツイッターとブログだけなのでやめたくはなかった。フォロワーが減るたびに何かしてしまっただろうかと悶々としていた時期だ。

・学級会恐怖症

 ツイッターでコミュニティができればまぁ仕方ないことかもしれないが、私はいわゆる学級会が苦手だ。人それぞれという結論に至るのに、答えがでないものに時間をさいて、ギスギスする空気が好きじゃない。「人それぞれだけど」という前置きをしながら、その実マウンティングのような圧の強い呟きが怖い。もちろん配慮で「人それぞれ」をつけることもあるし、表現に気を付けた上で諦めのように「人それぞれ」をつけることもあると思う。私もそうすることが多い。ただ、他の人の目を気にして、楽しいはずの趣味にこんなに疲弊しなければならないのかという悲しさも常にあった。

 じゃあ人の目を気にしていない呟きをしたいのかと聞かれれば、いやそれもなんか違う、と思う。少なくとも私は攻撃的なツイートが怖い。他の人の意見を許さない人のツイートが怖い。その人のファンの目の前で愚痴を言っている情景を、リアルに想像しては怖くなる。だから私はそんな風にはなりたくない。言葉のドッヂボールじゃなくてキャッチボールがしたい。私はそう思うけど、相手に「呟きだから」と発言の自由を行使されたらなにも言えなくなるのも確かだ。

 そしてマナーについて考える機会が不要だという極論を言いたいわけでもない。他の人の呟きを見てそうだなと気を付けるようになったことがたくさんあり、それはそれでよかったと思う。しかしどこからがOKで、どこからが駄目なのか、はっきりした定義を作るのは難しい。そもそも一ファンが解答するもんでもない、という思いがある。

 SNSには自由も責任もあるのに、どちらかだけが取り上げられやすい。確かなのは自由もあり、責任もあるということだけで、その基準はみんな違う。それはいいことでも悪いことでもなく単なる事実だと思う。しかしその事実を踏まえて私は結局どうしたいかというのは、毎度毎度分からなくなる。

 上記のように、自分には、「この人はこう考えてるからそうなのかもしれない、言い分もわかるな」とあらゆる意見を考えようとする性質がある。そして半年ほど前の自分は、その意見をすべて満たした人間になろうとして疲弊していた。めんどくさいと思いながらも、意見を言うほど強気になれず、それを言った後の人の目が怖いから、そこまでして言いたいことでもないかな……と思いこみ……ツイッターの裏で愚痴愚痴ぐだぐだ考えていた。実にめんどくさいオタクであった。(今も自分に関してはなかなかめんどくさいと思う。)

・変わる気がない

 アドラー哲学は言い訳を許さない。トラウマを否定し、自分がそうしたいからそうしてるんだという考え方をする。その理論でいくと、わたしは『苦しい思いしたいから』今の状況にいることになる。

 注意しなければならないのは、アドラー心理学において変えるのは「他者」ではなく「自分」であるということ。私は愚痴アカも攻撃的なアカウントも好きではない。でも突撃していって「私が楽しくないのでやめてください!」って言うのは我慢でもなんでもなく、したくない。「改心」してハッピーエンドになるかといえば大半はそうではない。その人にはその人なりの愛し方を持っていて、それが正義だと思っている。無関係な他人に踏み荒らされたところで、いくらそれが「正論」だったとしても、かたくなになるだけだと思う。
 私はそういう不毛な争いはやめたい。小学校の学級会は互いの意見をフラットに聞くのが当たり前だった。しかし、テレビでやってる議会は、揚げ足とって他人の意見をあまり聞く気がないように見える。ツイッターも基本的に一方向コミュニケーションなので、しかたないとはいえ後者のようになりやすい。相手と自分の両方に聞く気がなければ、突撃していって会話をしても多分結果は変わらない。

 そこで私は、嫌われる勇気に出てくる以下の二つの項目をなにかにつけて意識するようにしてみた。
 

①課題を分離する事
 信じるという行為もまた、課題の分離なのです。相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。アドラーの語る「愛のタスク」にはそこまでの問いかけが含まれています。(嫌われる勇気より)

②貢献感に幸せを感じる事
 他者から承認してもらおうとするとき、ほぼすべての人は他者の期待を満たすことをその手段とします。適切な行動をとったらほめてもらえる、という賞罰教育の流れに沿って。しかし、たとえば仕事の主眼が「他者の期待を満たすこと」になってしまったら、相当に苦しいものになるでしょう。なぜなら、いつも他者の視線を気にして、他者からの評価に怯え、自分が「わたし」であることを抑えているわけですから。
あなたの貢献が役立ってるかどうかを判断するのは、あなたではありません。それは他者の課題であって、あなたが介入できる問題ではない。本当に貢献できたかどうかなど、原理的にわかりえない。「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚を、すなわち「貢献感」を持てればそれで良いのです。(嫌われる勇気より)

自己洗脳といったら自己洗脳なのだけれども、多分行動には変化が起きてないと思う。
良くも悪くも、ただただ私が楽になっただけである。

・解釈違い、愚痴

 自己と他者の分離は、他人はどうでもいいという冷たいことばではないと思う。他の人を拒否するのではなく、自分の課題と相手の課題を分離する、ということだ。前者は私と相手が違うことをネガティブに捉えているけど、後者はフラットに捉えている。私がこういう考え方であることと、相手が違う考え方であることは全く関係ない。相手がこうだから私が何かをしなきゃいけない!とも思わないし、共感してもらえないから相手に考え方を変えてほしい!とも思わない。そういう風に捉えようと心掛けていたら、いけがみさんのように、たいていの解釈違いは「いい意見ですね~」と思うようになるし、愚痴アカ、悲観的なアカも「私は苦手だから見ません!」という単純な好みの話として処理できるようになってくる。

私が上に挙げた記事からアドラー哲学を感じたのは、
・自分とは違う人のことを批判しようとかではなく、理解しようと本気で考えたこと。
・相手と自分を尊重しようと考えていること。
・でもそこすらも分かり合えない事実を受け止めて、したらいいのにとは思っても、変わることを他人に強要しなかったこと。
・ただ、自分が悲しいと思った事実を誰にも否定させないと言い切ったこと。
このへんである。自己と他者の分離とはまさにこういうことだと思う。

 記事の例にあるように、「○ね!」とかはおかしいと思う。「人それぞれ」を免罪符にしてるし、絶対見習いたくない。でもアウトセーフを決める基準を誰が決められるというんだろう。「私はやっぱり嫌だ」としか言えない。誰かが批判する人は誰かの好きな人だ。私の好きな人がそんな風に言われたら悲しい。
 同時に、そういう人たちが変わらないことを受け入れている自分がいる。その人たちなりの論理がある。私にとって、他人が変わったらいいなぁと、関ジャニが彼氏だったらいいなぁは同じくらい非現実的な夢物語である。可能性は全くの0ではないが、その期待を押しつけて「裏切り」に胸を痛めるのはお互いとてもしんどい。それを踏まえた上で私ができることは、でかい声で「関ジャニが好きだ~~~!!!関ジャニかっこいいよ~~~~!!!!」と叫ぶことだと思っている。叫ばせてほしい。

・ブロリム

 私をブロックする人も、リムーブする人もいる。批判する人もいるかもしれない。ブロックされたら「私」の「見る」という行為もできなくなってしまうから正直辛いし凹むと思う。でもブロックはその人の課題で、辛いという気持ちは自分の課題だ。ポジティブな諦めを身に付けて、どうしようもないことに落ち込む時間を短くした方が楽しい時間は長いから、私はあまり沈んでいたくない。相手は私の悲しみに責任をとってくれない。怒りや悲しみのエネルギーを、関ジャニが好きっていう楽しい時間に使いたい。ニコニコ顔で「ブロックリムーブご自由に!!」とは言えないが、ブロックリムーブが自由なのは当たり前だと受け止めている。

・チケツイ

 私がチケット落選して、だれか他のファン(転売除く)が当選したときも素直に喜べると思う。その人が外れたら確率はほんの少し上がっていたかもしれないけど、私が当たったかはわからないし、なんにせよ今現在の結果は変わらない。その人が当たることで、嬉しい空気をTLに振り撒いてくれた方が、なんだかチケツイ一般頑張るぞと前向きになれる。
 壁打ちのときから、フォロワーが多い人が譲られやすいということについても、譲り条件に担当があっても、まぁそうだよね!というあっけらかんとした思考回路でいる。アカウントがしっかりしてると、トラブルになりにくい。絶対に楽しんでくれる人がいい。憧れのあの人と行ってみたい。どんな人に譲るかは、譲る人の課題だ。そして譲られる側も、本気で行きたいなら遠慮しないで声をあげ一般に望むのが譲られる側の課題だ。多分条件に見合わなければ、譲る人が弾いてくれる。そして譲られなくても憤る必要はない。(何度も言うが転売は除く。)

・アイドル

 同じようなことを関ジャニにも思ってる。恋愛スキャンダルが起きたらちょっと切ない。でも私の気持ちと関ジャニの行動には全く関係がない。嫌なら見ないように、言及しないように。私ができるのはそこまでだ。露骨に憤りをぶちまけて、周りをギスギスした空気にする方がよっぽど嫌だなと思ったので、マイナス発言はしないようにしてる。
 私は関ジャニに不満を持つこともほぼない。何事も都合よく変換して楽しませてもらってる。批評も専門家がすれば良いと思ってるので、私は私なりに誉めちぎる。マイナスな感情を抱くこともあるけど、言及のしかたは考える。嘘はつきたくないけど、ピックアップする感情は選ぶ。彼らは楽しませようとしてくれる。そして私は全力でそれを受け取りたい。とにかく楽しくオタクしたいという非常に利己的な信念がある。そのためなら多少の気遣いなんのその。
 私はアイドルとして関ジャニが好きなのだが、それ以上に人として彼らが好きだ。人としての振る舞いを望んでも、アイドルとしての振る舞いは正直プラスアルファだと思ってる節がある。ただ、これは本当に人の好きのなり方次第なので、アイドルを求めてしまうこと=悪だと捉えているわけではないことを主張しておく。アイドルという職業の線引きは人それぞれだ。

・担当

 私は今まで自分の好きな人に担当という言葉を使ってない。この担当問題によく葛藤していたのだが、最近は、ほしいな~~~ほしいな~~~と思う以上にほしくないんだと思うようになった。担当という言葉の定義が、ジャニオタと広辞苑では違ってると分かってるものの、やっぱり担当というのに抵抗がある。好きのはじめと終わりを区切りたくない。自担って言いたい、それ以上に言いたくない。そんなめんどくさい自分ですら、悩みたいから悩んでるんだなと暖かい目で(?)見守れるようになった。
 何度か担当ほしいなぁ~もう担当っていっていいんじゃないかな~期がきても、もはやなかば意地で名乗っていない。でもその気になったら名乗れるという心の余裕が、自由に生きて愛しなよという関ジャニの言葉が、私を楽にさせてくれているなと思う。

・フォロワー

 フォローしてくれてる人も、ブログ読んでくれてる人も、私と同じ「関ジャニが好きな人」。わざわざ見てくれてるくらいだから、私の一部の文章だとか、何かしらを気に入ってくれてるのだと思うけど、そこを「自分を好きな人」という関係でとらえ始めたら私はきっと迷走する。
 アドラーは承認欲求を認めない。自分も多分それで疲弊したので、自身は「なるべく」承認欲求をもたずに、フラットでいたいと思う。誉めてもらえるのはめちゃくちゃ嬉しい。承認に対する喜びは常にある。でも、それを目的にしたら関ジャニのファンアカウントじゃなくて自分のファンアカウントになる。あくまでも関ジャニについてのアカウントとして生まれて消えたいなと思っている。
 ブログを書いて、タグもやる。ただその理由は「貢献感」に対する欲にすりかえることにしている。何かをやるとき心の片隅に楽しんでもらえそうなものにしたいなという思いがあるし、やること自体に満足感を感じている。私の思うカッコ悪い呟きはしたくなくて、でもストレスも貯めたくない、というワガママをかなえてくれるのが、この貢献感なのかなと思う。

自由に生きて愛しなよ

 アドラーの解釈は、下手したら自己中心的にうつる。私も初めて見たときはその傲慢さに、そういう人がいるからTLが荒れるのだと思ったし、実際、自分に素直に生きれば良いんだ!とだけ受け取ってしまう人もいるんじゃないかなと思う。

 でもそういうことじゃない、と私は解釈している。アドラーは人のことを考えることを推奨している。その上でアドラー哲学は「人それぞれ」を悲観的にとらえない。「誰かのため、~せねばならない」という無意識の責任転嫁を許さない。「~のため」にしてしまうと、自分の思い通りにいかなかったときに勝手に憤るしかできない。でも「実際その人のためになるかは分からないけどもしかしたら喜んでくれるかもしれないし、そんな手間でもないからやりたい」という自分の欲求として捉えれば、嫌ならやらなければいいという心の余裕を持ちながら、楽しい呟きを心がけてる自分偉い!という自己肯定感まで得ることができる。考え方ひとつなんだけれど、とにかく楽に生きれる。
 以前は「お花畑(笑)」と呼ばれることに「そうだよね……ごめんね……」としょげていたが今はたぶん「うるせ~~~~~~!!楽しんで何が悪いんじゃ~~~~~~!!!!!」と開き直っている。(第三者的にこれがいいのか悪いのかは本当に分からない)
 共感は嬉しいけれど重要じゃない。私が満足するかが大切で、その満足感が楽しいオタクには必須なのだと思っている。

苦しむために生きないで あなた自身を愛してくれ

 私や誰かと同解釈じゃないなら、関ジャニを好きだなっていう気持ちをその人と分離すればいい。自分のスタンスは、誰のためでも、誰のせいでもない。同時に、誰かのスタンスも、私のためでも、私のせいでもない。ジャニオタ界隈には、楽になりたいけどああはなりたくないと言って、がんじがらめになっていく人がいる。仕事ならともかく、そんな疲れた気持ちに鞭打ってでオタクをするのはもったいない。アドラー思想は、自分の行為はそのままに、気持ちだけ楽にさせてくれる気がする。おすすめしたいのだが、こういう書き方すると宗教の勧誘みたいになってしまうから困る。そのようなあれではない。

 そして読んでくれた方のなかに、私と違う思想の人はいると思う。「こんなこと思ってたんかい!」とリムブロされる可能性もあるから、意見をいうことはすごく怖いし、大して楽しくもない。味方もできるだろうが敵もできる。だからヘタレで楽しいオタクでいたい私はツイッターではあんまり考えをのべない。でもまぁ素敵な記事に感銘をうけて、せっかくだから自分もたまには自身のことについて語ろうかと思った。だれも攻撃する気はないことだけ分かってほしい。

 もともとはネガティブな人間だ。でもどうせなら楽しまなきゃ損だと思って考え方を変えた。
 私は関ジャニが楽しくアイドルできて、みんなが楽しくオタクできる世界が一番幸せだと思うし、そういう世界に住みたい。そんなことを内心考えながら、SNSに生息している。

【ネタバレ】イフオア感想とか

 イフオア、それは村上さんとの内緒話の場。ブリーゼとグローブ座は、限りなく狭い村上さんの遊び場。10年という長い年月続けてきたこの場所はもはや村上担のみならず、エイターの神聖な場のようなイメージがあります。

 私は友達に誘われたコンサートの帰り道、よく知らないくせに「イフオアにいつか行ってみたい」と言っていたくらい、イフオアという場所に憧れがありました。ファンクラブの名前も、ジャニーズ目当てで買った雑誌も、ツイッターを始めた最後の一押しも、いろんなことの初めてが村上さん。今回初めての舞台をこのイフオアに捧げることができて本当に幸せな気持ちで感想文を書いています。日記なので、時系列でだらっだら書いていこうと思います。安田さんも来ていたという、2/24夜公演です。(気づきませんでした)

入場前

 ジャニショで買ったNOROSHI村上さんを見てイメトレをしながら緊張で吐きそうになっていました。トイレ前のゴミ箱の蓋が紫で、ゴミ箱にすらドキドキしました。来ている人の年齢層は幅広く、二、三十名義持ってるマダムっぽい人から、勉強してる女子高生まで。年齢高めの方のほうが、紫色意識してるなという印象でした。入り口はいって左横に、100均にありそうな簡素な茶色い布編みボックスがあり、そこに手紙を入れることができました。入場間際に思い出して投函しました。(飛行機が遅延したので夜中の0時~3時くらいまで書いてました。あいうえお作文は私にとってのファンレターみたいなものなので、結局文章はほぼそれにしてしまいました。冷静になった今、このブログの存在が万が一にでもスタッフさんに知られませんように……!と思っています。)ボックスに入っていたのは10通くらいでしょうか。私は神様への絵馬のような気持ちで入れておきました。 席は、一階後ろの方、通路横の席で、神席です。村上さんと同じ空気が吸えるところはだいたい神席ですが、ここなら村上さんに何かあったときとんでいけます。個人的に映画館なら一番に選びたい席でした。舞台は『If』『or...』『Ⅹ』とかかれたボックスに囲まれたステージ。中央にスクリーン。answer等々、関ジャニの音楽が流れていました。

本編

 紫のライトが四方八方にとび、開幕。
 場面は村上信右衛門の殺陣シーンから始まります。これが死ぬほどかっこいい。「討ち取ったり~~~」と敵首を掲げるものの、『それは影武者です!』『別人です!』と言われ、てんやわんやしながら舞台のあっちこっちで戦闘シーンをやってくれます。クロニクルのるろうに剣心を思い出しました。斬る側でも全然いける、と。かっこよすぎて終始息をのみ、笑うことすらできず、真顔で本当に申し訳ありませんでした。まじでかっこいいです。現代のサムライ。最後にⅩの字に刀を振り下ろし、暗転。ムービーが流れ始めます。
 ムービーは歴代のイフオアを振り替えるような構成でした。最後のイフオアⅩの映像が出たときスタンディングオベーションしたくなるレベルです。いいようのない感動に、初見オタク、もはや虫の息です。

 場面かわってスクリーンは夜の海。宴会の場面のようです。船の先を模した台の上で、酔っぱらいながらイカを食べる村上さん。さっきとは一点かわいらしいお姿に、思わず頬も緩みます。普段酔っぱらってからんでるときこんなのだったらと思うとしんどいです。言葉遣いはただのくだ巻いてる柄悪い人で、そこもたまらなかったです。「酒持って来いっつとるやろがァゴルァオイてめあほんだらコラァッ!!!!!!!」(ニュアンス)です。しかもこの場面がまるで大河ドラマのような雰囲気で、興奮することしきり。殺陣の流れから、酔っぱらって、方言混じりの宴会。方言は指導まで受けたそうです。途中からもう「大河じゃん!!!!!大河じゃん?!?!?!」と1人興奮して悶えてました。関ジャニの中で一番武士というか郷士の雰囲気が似合うのは村上さんだと思っていて「オファー来て、お願い、オファー来て、逸材がいるんだよ……!!!」と祈るような気持ちでいっぱいでした。歴史好きにはたまらないワンシーンです。
 宴会が進むと、天候が悪くなり、村上さんは迷信と笑い飛ばしていた黒流という渦?に巻き込まれてしまいます。暗転し、ムービーは海に沈んでいく村上さん。そしてなぜか落ちた先にはタイムマシンがありました。「深夜割り増し料金」になり動き出します。ぎゅんぎゅん高速で未来に進むタイムマシン。背景で流れる未来の年表。ほぼ忘れましたが、村上さんがSHINGO(シンゴ?)#に改名する未来があったきがします。

 さて、たどりついた先は海岸線。水がまがまがしい紫?緑?色で、背景には鉄のかたまりが転がっています。寝惚けてるのか、二日酔いの朝のようにぐだぐだする村上さんがかわいい。「起こしてっ」と言って仰向け状態で腕を天に伸ばす村上さんを見て思わず顔をおおって天を見上げてしまいました。一秒でも見逃すのがもったいないのですぐやめましたが、かわいさにキレそうになったのは久しぶりでした。その後ようやくみんながいないことに気づいた村上さん。「みなのしゅうにあいたいのう」「わしゃひとりじゃなにもできん」「甲冑ひとりで着たり脱いだりできん」と嘆く姿にリアルを重ねて胸がぎゅっとなったファンがほとんどではないでしょうか。刀を鞘に納めて「おさまった~~~!!!」、それをおそるおそるタイムマシンに当てて、「当たってもうた~~~!!!」と、現実であることにがっくりする村上さんもかわいかったです。

 そんなところに、女装した村上さん(映像ですが)がやってきます。近未来のスーツを着た女性で、ハイテク軍という一味の一員のようです。ほっぺをぷくっとしたり、あざといのなんの、メイクでぱっちりした目がほんとにかわいい。いやそりゃ女装毎回入れられるわ。「アナログ軍(ハイテク軍が敵対している組織)じゃなさそうだし、知ってる人に似てたから」助けてくれたのだそうです。未来的な装置で村上さんが過去から来たらしいこともなんとなく把握し、現状を教えてくれました。とはいえ村上さんにはちんぷんかんぷんなようです。混乱しているところに、女性の上司らしき人が乗ってる(操ってる?)マシンがやって来ます。そして村上さんには大して構わず、女性だけを乗せて去ってしまい、村上さんは一人で放ったらかしにされてしまいます。
 その後、アナログ軍の襲撃にあい気を失った村上さんは、手錠をかけられ閉じ込められてしまうんですが、まぁこのお姿がセクシー。覆面をつけたアナログ軍の人にビンタされたり、叩かれたり。「やめろ~~~!!!」と思いながらそれでも真っ直ぐな瞳に、オタクは「サムライだぁ~~~」と泣きました。いやはや感情が忙しかった。続いてアナログ軍との問答が始まります。

「名前は?」「年は?」「身長は?」「体重は?」「夢は?」
→さらさらと答える村上さん。26歳、五尺六寸、十六貫、だそうです、自分のいまの年齢からイフオアの年齢引いたのかな。

「血液型は?」「マイナンバーは?」「メールアドレスは?」
→天然出さずにきちんと知らんって言ってました。

「好きな歌は?」
→「我が軍勝利の歌」歌うように指示される村上さん。

 これがLOVE&KINGの替え歌で、それに気づいたとき会場が一番わっと嬉しそうにわきましたね。ああほんとにここは村上さんが好きな人の集まりなんだって感無量でした。歌詞は水軍バージョンになっていて、カウントも「ひい、ふう、みい!」。真面目にふざける村上さんの姿に自然と楽しい笑いが広がりました。(かっこよかったですよ!)
KINGについてはいろいろあったと聞いていますが、それをこうやって舞台に取り入れ、貫きながらも、笑いに変えてオタクを安心させてくれる。村上さんの優しさとかユーモア心とかを感じて、素敵だなぁ、かっこいいなぁとじーんとしてしまいましたね。いや爆笑もしたのですが。

 さて、なんとか納得してもらった村上さんですが、今度はハイテク軍との戦いに協力してほしいと言われます。なんでも、ハイテク軍が人間の生活を便利にした分、その排水で海が汚れてしまったのだそうです。アナログ軍にはハイテク軍に対抗するすべがなく、はったりでごまかしているようす。「『イフィッシュ』という伝説の魚(炎水雷を操る)を捕まえたら、自分たちにも勝機があるかもしれない。異世界からきたお前なら釣れるかもしれないから、タイムマシンを(直せたら)直す代わりに釣ってきてほしい」と言われます。村上さんは「やるだけやってみるか~~~」ということで釣りざお片手にカオデ海へ。この移動~釣りのシーンは『どうぶつの森』ならぬ『ぎょかいるいの海』のパロディとしてスクリーンに出ており、遊び心が感じられます。時事ネタを組み込んでくる感じ、オタク心をくすぐられますね。

 暗転後、なんと一階席で我々が入場してきた扉から自転車で村上さん登場。数メートルの距離に村上さんがいて、アワアワパニパニしました。自転車をこいでステージ前まで行ったところで自転車を止めて、ここでお昼ご飯。メニューが毎回違うようなのですが、私が見たときは魚肉ソーセージ。食べ方がわからないらしく、目の前のファンに「旅のお人、開けてくれんか」って差し出す村上さん。ヨコヒナええやんの「めくれへん」を思い出します……。ファンのかたも緊張したのかなかなか開けれず、爪にソーセージが詰まるまで頑張っていました。それに気づいた村上さんは「めっちゃつまっとるやないか!拭くもの……(鞄探す)(優しい)(お母さん)……無いからねぶっとれ!」と言ってました。むいてる間も、自転車の椅子に座ってじーっと待ってる村上さんはぬいぐるみのようでした。包装を少しめくった状態で渡され(ファンの方が多分「(包装を)引っ張って」と言った)ところ、「こういうこと?」とファンとソーセージ引っ張りあいする一幕がありました。とても和みました。包装とソーセージどっちが食べ物か分からず、「どっち?こっち?」と聞く姿も愛らしかったです。 ボトルを開けるところでもボケる予定だったんでしょうが、普段通り開けてしまって本人爆笑。午前の部でもやってしまったそうで、天然なのか確信なのかわからないけど胸がぎゅんぎゅんしました。

 いよいよ釣りです。(この間に自転車が片付けられ「パクられた!!!!!」と叫んでました。)釣り上げるものは色の反転したタコ、変なイカ、麺づくり、ハイチュウ、チョコモナカジャンボ(曰く瓦だそうです)、おっとっとというラインナップ。どうやら平仮名しか読めないようで、おっとっとが出たときは「読めた~~~!!!」と嬉しそうに言っていて、オタクの親心が爆発しました。次に釣り上げたイフオアグッズに「わしじゃ!綺麗な二重じゃ!」と自画自賛していました。(確かこの場面……)めちゃくちゃ頷きました。ようやく釣れたイフィッシュは、なんともかわいらしいジンベエザメのぬいぐるみのような姿。炎はライター程度、水はおしっこかけるくらいでしたが、雷の威力はすごい。さっそくハイテク軍との戦いに赴きます。

 対峙するのは自分を助けてくれた女性。「自分で助けた人を自分で倒すのも悪くないわ」と言って恐ろしい強さでアナログ軍をやっつけていきます。なお、この女性はWhotuber(Youtuber)らしく、自撮り棒を使いながら映像で実況してくれます。こんなあざとい村上さん、イフオアでしか見られません。ひなちゃんクーイズや、公開録音のときの萌え袖ひなちゃんを想像してください。あれがずっと続きます。下にはリアルのかっこいい村上さんが甲冑着てます。箱推しは常時「どこ見れば?」と思ってますが、一人舞台でもこんな思いをするとは予想外でした。結局大砲に自らが入り、飛んだ勢いで機械のコアを破壊することで勝利。女性をお姫様だっこして「借りは返したぞ」と呟く村上さんがかっこよかったです。

 さて、ハイテク軍とのボスとの決戦。このとき、舞台の手前にスクリーンがもう一枚降りてきて、これに雨の情景や波が投影されることでとんでもない立体感と迫力を出しています。攻撃のビームなんかもすべて映り、それにあわせて避けたり、受け止めて跳ね返したりといったシーンがハリウッドばりにかっこよかったです。さて、戦闘シーン。イフィッシュも手伝ってくれるのですが、敵の強さの前に倒れてしまいます。激しい戦闘、そして見えた敵将の素顔は、なんと村上さんにそっくりでした。(いやまあ本人ですが)ハイテク軍の大将は村上さんのご子孫だったのです。「自分を倒すと家系は途絶える。それでもいいのか」と大将は言います。アオリの『血を選ぶか』というのはこのことを示していたのでしょう。(さらにパンフレットにはこの言葉の続きが載っていて、二つで一組の言葉となっています。ミステリーの種明かしのような爽快感でした。)それでも村上さんは、綺麗な海をとりもどすことを選びます。Ⅹの字の太刀筋で大将は斬られ、そして戦いは終焉を迎えます。

 エピローグでは、アナログ軍がハイテク軍と共にいきることを選んだこと、村上さんがこの地に残ることを決意したことが述べられます。一件落着かと思いきや、ふとしたはずみでタイムマシンが動きだし、村上さんは更なる未来へ進みだします。「わしゃもう未来はこりごりじゃ~~~!!!」という叫び声で物語は締め括られます。きっと未来でもまた誰かを救ってくれる、そんな期待とわくわくに満ちた終わりかたでした。

 スタッフロールではメイキングが見れます。映像が多いので、楽しそうにいろんな表情を作り、それを自分で見ては爆笑する村上さんがとても愛しかったです。

先生

 これで終わりかと思いきや、「先生」というコーナーがありまして。恒例らしいのですが、白衣を着た村上さんがジャニーズをいじりながら講義をしていくという仕様です。出てきたときに、村上さんがぜえはあ言っていて「1日2講演はもう無理やな!」って言いながら水を飲んでいました。休ませてあげてほしい、でもそんななか少しでも多く日程作ってくれてありがとう、いろんな思いで胸がつまりました。
 今回は何かと話題な相撲(紙)形式で。最初に背中に『キ』『ン』『グ』『&』『クイ』『ーン』と文字がかかれた紙力士が円状にならんでいて、ぐるっと一周させて見せてくれました。ただの紙相撲ではおもしろくないので、他のグループは以下の素材になってるそうです。

V6:和紙(岡田さんの出演作品のコール&レスポンス、みんなで井ノ原さんの顔を想像しました)
嵐:超合金(頭は櫻井さん胴体は松本さん左腕が二ノ(左利きだから))
TOKIO:木
セクゾ:薔薇
関ジャニ:札束(集まったら強いみたいなことも言っていてちょっときゅんとしました、せごどんの顔になってるのも愛)
west:ぺら紙
KAT-TUN:亀
A.B.C-Z:カエル
キスマイ:ローラー
NEWS:新聞(手越くんは三文記事に由来「最近静か」)

ここで、メンバーについて言及するパターンもあるようですね、私は「ヨコとすばると、相葉ちゃんをカッペと呼んでいた~」というエピソードくらいでした。(「田舎もんや!って笑っとったけど俺らの方が田舎もんやな!」と言ってました。)番付をやっているようで、今場所のとりきめは

Hey!Say!JUMPvsNEWS
セクゾvsキンキ
嵐vsKAT-TUN

となりました。北と南になってる理由は、「関ジャニが東で嵐が西なことに対し、アンケートでやいやい言われてやかましかった」からだそうです。
最初のとりきめは、きちんとひとつひとつ塩まいたり、行司したり。人形遊びしてるちっちゃい子みたいでかわいかったですが、途中から雑になりました。二回くらい力士ものまねもしてくれました。

 Hey!Say!JUMPはバネなんですけど、思ったより動かず、NEWSが自滅しました。キンキは、塩がガラスの底についたのが原因で負けてしまいました。まきすぎたかな、といった顔で申し訳なさそうにしてました。嵐とKAT-TUNは大盛り上がり。「向かい合ったときに卑猥な構図になってしまうから、亀を立てるようにして、首も前に出るようにした」という風なことを言っていました。配慮ができる男です。

開始早々下がっていく亀さん
→村「びびるなよ~~~!!再始動したんだろ~~~?!?!」
回転して村上さん側に向く亀さん
→村「なんや?!ああ?!やるんか?!」
さらに回転し嵐超合金と同じ向きになる亀さん
→村「2対1か?!?!ああ?!?!コノヤロウ!」

ずっとかわいかったです。結局亀さんが負けて「二回くらいやり直したったからな!これで負けるならしゃあないやろ!」とご満悦でした。

カテコ

 フリートークはグレー?白?のニット帽に、白インナー、サイドに白ラインの紺ジャージ、底白の黒スニーカーで登場。内容をかいつまんで書くと、

・新マネージャーとスタッフと昨日飲みにいって、新マネージャーが、丸山さん仕込みの「寿司ざんまい!」のネタをしようとした際に勢いよく転んでてウケた
・よくダイビングに行くおっちゃんが最近アル中みたいに手が震えてる

という話でした。なんだか落語みたいでもあり、ほんとに世間話のようでもあり。特に記事に書くこともないくらい、ただただ嬉しそうに話す村上さんを見ながら、うんうんって聞いてる彼女気分を味わいました。(図々しいです)

楽しかった

 感想は以上です。こうやって書いてると、改めて、楽しかったな~~~という多幸感に包まれます。ほんとうに楽しかったです。村上さんがやりたいことを、村上さんに見せてもらえることが、本当に私は嬉しかったです。かっこいいもかわいいも見せてもらって、1人で初舞台も遠征も不安だったし、罪悪感もあったけど、全部吹き飛ぶくらい楽しい一時でした。舞台をいろんな人に見てもらったら、舞台出のファンだってできる。でも確かに舞台でしか感じない迫力があって、ライビュや円盤では軽くなってしまうかもしれないと……悔しいけどそんなことを思ってしました。(イフオアは特に)行けるのはほんの少しで、村上さんの体調を考えたらたくさん公演するのも大変で、行けたのは宝くじにあたるくらいの奇跡だったと思ってます。少しでも行けなかった人に空気が伝わったらいいなと思います。



余談(他担がイフオアにいきたいと思うことはだめなことなのか?)

 私は村上さんの担当は名乗っていません、だから自分の名義で当てたチケットですら行くことにすごく後ろめたさがありました。でも好きの気持ちって他人と比べられるわけがなくて、私の何番目かの好きが、担当の人の最上級の好きより劣ってるとかそんなことはわからないんです。私は本当に行きたくて行って、誰かに叩かれたとしても、行ってよかったと心底思っています。
 チケットが譲られるかどうかは、譲る人次第なので、条件に担当があろうがなんだろうがいいと思うんです。絶対に楽しんでもらえる人に見てもらいたいというのは当然の心理です。ただ、私が箱推しだからもあると思うんですが、担当じゃないけどその舞台を見たくて行く人を責めないであげてほしいなと感じます。チケットが当たったことを素直に喜べないのはなんだか悲しいです。
 私の入った公演では、自転車で進む村上さんに手をのばして触れた方がいました。村上さんが怪我をしたらどうするんだと立ち上がりそうになりました。彼女が村上担かはわかりませんし、村上担に優しい人、マナーがいいひとがたくさんいるのも知っています。だからこそ、本当に大事なのは担当じゃなくて、そういうマナーを守れるか、一緒に村上さんの舞台を暖かい空気で楽しんでくれるかだと思います。私なら、好きさ余って村上さんを危険にさらすような人よりも、「すごく見に行きたいけど村上担が行くべきだろうな」と身を引いた人に見てほしいと思いました。
 行く行かない、譲る譲らない、全て当人の自由だと考えています。行きたいなら行けるように努力し、譲られなくても苛立たず、人の当選に腹をたてないように(高額転売は別です。それ目的の応募が増えるので)、そんなふうにオタクやっていきたいなと思いました。

関ジャニメンバーの愛の形について考える

※今回は特に、個人が考えたことのメモのようなものです。全ての彼らの発言を網羅しているわけではありません。
 断定の表現は避けるよう努めていますが、解釈違い等気にされる方はご高覧お控えください。
 
「愛されるよりも 愛したい本気(マジ)で」
言わずと知れた、KinKi Kidsの名曲のワンフレーズを何度も唱えていると、「マジで……?」という想いに駆られます。愛は永遠のテーマと呼ばれるように、凡人にはなかなか答えが出せません。しかし、関ジャニならば、何と答えるだろう?どういったフレーズになるだろう?恋愛、友情問わず、彼らの愛の形ってどんなものだろう?KinKi Kidsのワンフレーズを独断と偏見で言い換えてみて、なぜそれがしっくりくると感じたのかな~と考えたことを書いてみました。


錦戸さん「愛したひとに愛されたい」

錦戸さんの発言を見ていると、愛情表現に抵抗を感じない人だなと思います。とてもストレートな愛の形です。手をつなぐのも、ペアルックも抵抗が無い。毎日好きって言いたいし、キスもしたい。愛されたいとかどうのこうのより、好き!がまずどかんと来るような気がしています。

錦「「あの人好きやー!」って騒ぐからね。基本的にひとめぼれなんやけど、一度好きになったら俺からは嫌いにならへん。好きな人の言葉はすべて「愛してる」に聞こえるし」(2007)

でも錦戸さんはとてもさみしがり屋です。メンバーを飲みに誘って断られしゅんとしている錦戸さんを見ていると胸がはりさけそうになります。錦戸さんは警戒心が強いですが、心を許した人にはデレデレになってしまうし、同じくらいの愛情を求めてしまうタイプな気がします。どっくんと呼んでほしい、ドラマも見てほしい、「俺のこと好きでしょ?」に対する返答が「嫌いやないけど」だったら「何で好きって言ってくれへんの?好きって言ってほしかったのに!」とすねてしまう。好きな人に求められたい欲求も、相当強いのではないかと推測します。



村上さん「自由に愛し、愛されたい」

村上さんは互いに束縛するのを嫌いそうだな~という発言をよく目にします。そりゃあ愛されたら嬉しい、愛すのも楽しい。でもあくまで一個人としての独立性を大事にしたい。好きになるのも、好かれるのも、他人に迷惑かけない範囲で、自分も相手も自由にしてこその愛だとと思っている気がします。共依存を愛とは呼びたくないように見えます。

村「盲目な恋愛はしたくない。入りこむとフラットでいられへんから。あからさまに顔に出よるからなぁ」(2007)

自分の価値観を大切にしてるし、相手の価値観も尊重したいから、こういう愛のかたちになりそうだと思いました。相手に求めるハードルは高いですが、相手にそれを強要することはなく、それに合った相手を選ぶだけの話かと思います。とはいえ、村上さんはふと思いつきのようにいろんなものを覆してしまう気もするので、とにもかくにも自由度の高い愛の形になりそうな気がします。


安田さん「愛したい」

どストレートですが、好かれたら嬉しいな、ありがたいな、くらいしか、他人からの愛を求めていない気がします。それがもともとそうだったのか、そういう風になろうとした結果なのかはわかりません。何番目かに愛してくださいっていうのも、人からの愛を強く要求できない(しない?)安田さんの雰囲気が出てる言い方だなと思います。なにかを愛することに幸せを感じられる人だと思うので、愛されたい欲望についていろいろ語るより、まずぱっと愛したいってはっきり言うタイプに見えます。愛します!と宣言してそのまま愛してくれそうです。

安「去年の自分の誕生日に「産んでくれてありがとう」と両親にメールを送りました。ありがとうと言うのは簡単だけど、何回言っても伝わりにくいものだから、何回でも何回でも言葉にするようにしています」(2009)

一番なにかを愛することに抵抗がない人だと思います。執着はあるのかないのか分かりませんが、新年会でどっきりだとわかったときのあの表情の推移をみる限り、表には出さない、というか出したくないんだろうなと思います。


大倉さん「愛されたい」

決して愛したくない訳じゃない。嫌いな人には嫌われたって構わないという気概も持ち合わせている。そうは思うのですが、「愛したい!」という欲求よりも、「え、愛されたら普通に嬉しいやん?」という素直な気持ちを持っていそうなところに焦点を当てました。好きな人はきちんと大事にするとは思うんです。しかし「この人を愛したい!」と思って誰かを愛する人とは違うかな~と思います。自然と好きになっていた、みたいな愛し方をするように見えます。男兄弟の中で育ったのもあり、理想は高いとは思いますが、相性さえ合えばそれは覆ってしまいそう。だから「愛する」ことを意識してるような「愛したい」という言葉は省きました。

倉「プロポーズは言われたいです」(2014)

倉「守ってあげたくなるけど、僕を甘えさせてくれる、そんな子が理想かも」(2006)

無理したり苦しんだりする愛なら、しない方がいいと思っていて、穏やかな、夢のある愛を求めているような気がします。


丸山さん「愛したり愛されたりしたい」

村上さんの「自由に愛し愛されたい」との違いは、村上さんは「俺が愛したい人がいる」&「俺を愛してくれる人がいる」という印象に対して、丸山さんは「愛する、愛される」が流動的なイメージなのです。丸山さんは同じ人を愛したいときもあれば、愛されたいときもある、そういう自由さが感じられます。さらに愛に関して「~したい、~してほしい」という願望が強そうにも見えました。

丸山隆平恋人の条件
・僕が大切にしたいと思える
・僕を誰よりも大切に思ってくれる(2006)

亭主関白とはちがうんですが、愛に関してのマイルールやこだわりを強く持っているのではないかというのが丸山さんの印象です。「俺が思う分には自由だし……」くらいのちいさな欲望が、心のなかにいっぱいある気がしました。恋の駆け引きも好きそうで、とはいえふとした瞬間にめんどくさくなったりもしそうで、曖昧な流動体のような好きの形なんじゃないかなと思ってこの言葉にしました。


横山さん「愛されるより愛したい」

まんまです。これが一番似合うのが横山さんかなと思ってます。ファンサ傾向を聞く限り、もらった愛に真摯に答えてくれる人だと思います。愛されたくないわけじゃない、ないんですが、横山さん自身は、他人の愛というものに振り回されたくないんじゃないかなと思います。愛されるのは嬉しいしありがたいけど、俺の愛は「俺が」決めるっていう亭主関白さ(?)が感じられます。

【恋に落ちたらどうなる?】
横「変わらない」(2007)

横「10代の頃から常に相手のことを考えてた。自分がめっちゃ好きやったとしても相手が自分以外と付き合った方が幸せになれるんちゃうかと思ったらどんなに好きだったとしても諦める」(2015)

愛されたから好きになるとも限らないし、束縛されるのも嫌い。でも愛した人は本当に大切にします。愛されるよりも、愛したいという比較の表現がぴったりくるなぁと思いました。


渋谷さん「怖いけど愛したいし愛されたい」

安田「渋やんは愛を与えてもらったら愛で返してくれる人。素直で嘘をつかない人」(2010)

渋「僕はフラットでいたくない。フラットを保とうとしてもムリ。失恋したらしたでええやん。その気持ちを音楽に生かせば。彼女ができたらあったかいHAPPYな詞を書けるやろうし」(2007)

渋谷さんは繊細だしひとりひとりにかける愛が重めなので、いろんなことを怖いと思いながら愛し愛されてると思います。愛して依存して傷ついてしまうことは怖いけど、愛することをやめたくないように見えます。傷ついても、ひっくるめて愛って良いなぁって思える人だと思うので、愛することも愛されることも本質的には好きだと思います。「俺にはお前らしかおらんねん」と言ったり、他の人のところに行ってしまうことにおびえたりするのが渋谷さんの根っこの性質なんだろうなと感じます。今はメンバーに対しての依存度はそこまでではないかもしれないけど、それは信頼が不安を上回ったからであって、基本的に渋谷さんの愛は不安と表裏一体なのではないかと思います。丸山さんや錦戸さんのように相手からぐいぐいこられた場合も少し引いてしまう傾向にあるような気もします。少し臆病で、でも誠実な愛なのかなと思います。



恋愛にしぼらず、対ファン、対メンバー、対友人、ぼんやりとした愛の形について考えました。時間がたって変化した部分もあるだろうし、わからないのが当たり前で、でもこうやって、好きな人が何考えているのかなと考える時間は楽しいです。他人から全く愛されたくない人がアイドルになるわけがないということが、ただ一つはっきりしていることかなと思います。今後も彼らの迷惑にならない範囲で好きを発信していけたらなぁと感じる今日この頃でした。


メンバー発言はエイトの愛言葉bot様を参考にさせていただきました。

あいうえお作文で村上さんの魅力を語る

村上さん、お誕生日おめでとうございました。

もうイフオアですね。先に羊の木のこと書いてなんだか後ろめたい気分でいっぱいですが、personもようやく手に入ったのでお誕生日のあいうえお作文を完成させたいと思います。personは村上さんのファンがインタビューしてるんじゃないかと思うくらい胸に響く内容で、村上さんが好きでよかったと思うものです。村上担はもちろん、それ以外の人にも読んでほしいです。(宣伝)

 

すぶひと

昔はすばるくんに友達紹介したりとかあったようですが、村上さんは誰かと誰かを繋ぐというより、自身が誰かと縁を結ぶ人だという気がしています。色んな人の懐に入るのが上手で、屈託のない笑顔で絶妙な間合いを読む。さりげないボディタッチは性別を問わずいろんな人の母性をくすぐります。(胸キュンも誘います。)そんな姿をみていて、天然の人たらしの才能を感じます。

村上さんはなついてくれます。けれども、こっちが拒絶したらすっと諦めてしまいそうで、もし私が友人だったら引き留めていたいという気持ちにからめとられてしまいそうだなと思います。いろんな人が気づいたら村上さんに蝶々結びのような縁を結ばれているんでしょうね。

 

んにんぐからじょぎんぐへ
村上さんは最近よく地面を見ているなという気がします。今の3分4分はデビュー当時の120くらい。今はおまけ。それでもあんな仕事の量をこなしてしまうので、仕事のできる男はかっこいいなとつくづく思います。2017年活躍した勢いのまま海外へ……?という話になっても、村上さんの2018年は地固めをすることが目標だし、ロックフェスの成功のあとも「メンバーの音楽への愛が深い分、自分は近づきすぎたら駄目だと思ってる」と言います。前へ前への関ジャニのカラーの中でも一番先頭を切り開いている仕事ぶりですが、その実、一番今いる場所に踏みとどまることの大切さをはっきり説いています。他のメンバーが走る姿を見たり、後ろにいるファンを見たりしながら、誰もやってないとこの地面の整備をやってくれてるのかなって思います。あれだけ売れてても、地面を見失わないところが、私の目にはサムライに映ります。ペースメーカーのような役割を果たしてくれる村上さんがいなかったらというのは想像しがたいですが、少なくとも関ジャニはもっと不安定なものだったのではないかと感じます。

 

みさまたちのとなりで
村上さんは、渋谷さんや横山さん、錦戸さんといった東京組の中では目立つ存在ではなかったのでしょう。「勝たれへん」「俺にはなにもない」「ええなぁ」と思っていた村上さんのコンプレックスは、くしゃくしゃに放っておかれたまままだ中にあるんでしょうか。それとももう古い手紙のようになってるんでしょうか。

どこかの占いでも言われていた気がしますが、村上さんはものすごく考えてで生きているようで、とても感覚で生きている人なのかなという印象があります。もちろん努力や経験に裏打ちされたものではありますが、その嗅覚的センスは、万人が磨けるものではありません。ときに周りに合わせ、ときに誰もしていないところをコツコツ積み上げてきた村上さん。私にとっては、そんな村上さんも神様みたいにすごい人なんだけどなぁと思います。(このへんに関してはpersonが答えをくれた気がします。見てください)

 

りょくあふれるひとみ
私はもう村上さんのトイプーの次にかわいい瞳が好きで好きで好きで。曇りの一つも見えない、綺麗な目が大好きです。あの瞳に見つめられたいというより、何かを真っ直ぐに見る村上さんを見ていたいなと思います。村上さんの目には信念が宿ってるみたいで、自分の信じるものを見ようとする気迫があると感じます。鈍感と言われるのも、そういう己の気持ちが真っ直ぐな故なのかなとも思います。周りを見てフォローすることができる気配りは、もともとのものと言うよりは、おっとりとしたヒナちゃんが自分が気づけなかったことを沢山考えて学んでいった努力の成果なんじゃないかと思ってます。


ょうねんにもどるとき
村上さんは仕事ができる男で、今やツッコミやMCにも慣れて、何事にも動じない貫禄がついてきました。それはそれでかっこよくて好きですが、私は村上さんが子どものようにはしゃいでる姿がたまらなく好きだったりします。松原.が好きな理由に、少年のまま関係性が変わらないというのがあります。渋谷さんに笑ってるとき、村上さんはただただ楽しそうに笑います。そうでなくても村上さんって表情がストレートで、笑うとき全力で笑います。愛想笑いとかニヤニヤした表情はほとんどみたことなくて、嬉しそうに楽しそうに笑うから、いろんな人がもっと笑わせたいなぁと思うんじゃないかと思います。英語、歴史、経済。36歳になっても小さな新しいものをひとつひとつ大事に拾って「面白いなぁ」とはしゃいでるとき、笑ってるとき。楽しそうな村上さんと、きりっとした普段とのギャップがとても好きです。 

 

らくをつくる
バラエティもトークも、MC次第で全然空気が変わってしまいます。村上さんはたくさんバラエティやラジオのMCをされていて、一般の幅広い世代に認知されています。娯楽とは心を慰め楽しむこと。つまり娯楽の時間とは癒しの時間です。関ジャニや共演者がのびのびと番組を作れる場を組み立ててくれる村上さんは、横山さんとはまた違った立場でエンターテイメントを『作る』人なんだなと思います。

英会話はともかく、村上さんの作る笑いはfunnyではなくinterestingの方なことが多い印象をうけます。だからこそ幅広い人と調和を産み出すことができて、他人を輝かせることができるんだと思います。(ただ、英会話の何も考えずにボケたおす村上さんがとても好きなので、そういった方面での活躍の機会が増えたらなぁと思ってはいます。)

 

私はピンでの村上さんの番組をほとんど見たことがないし、周りと村上さんについて話す機会もありませんでした。他の人がいうような扱いだとかは見ないようにしているので、そういう部分からくる尊さっていうのはよく分かってないと思います。

でもそうでなくても、村上さんはとても魅力的で、かっこよくて、いつもキラキラしています。村上さんにしかできないことが、たくさんあります。ファンのこと見てくれていて、それでも自分の道を見失わないで貫く村上さんがとても好きです。

同じ時代に同じ日本に生まれてくれて、アイドルになってくれて、ありがとうございます。

 

【ネタバレ】羊の木感想

記憶力がないのですが、ツイッターで書き込んでいるだけではどうも消化不良にいたるので、映画を見たときの脳内をそのまんまメモしておこうと思いました。※()内は書き終えたあとにパンフレットを読んで共感したところです。

もともとミステリーのように淡々と事実を述べて、思考は読者に任せてくれるようなものが好きなので、羊の木はドツボジャンルでした。羊の木の前情報も受刑者で全員殺人犯ということくらいしか知らなかったので、もっと推理ものに近いかと思ってましたがとんでもない『空気で見る』映画でした。(『謎解きというストーリーの面白さで観客を引っ張ろうとしない』という脚本家さんの言葉を拝見して、まさにその空気を感じ取って見れたことを嬉しく思いました。)
私は記憶力がないので、物事を気持ちでしか記憶できないのですが、ありがたいことにこちらの映画の監督が「映画は俳優を見るもの」と言ってくださったので、そういう意味でも感じたことをぼんやりと書き留めたいと思いました。ストーリーの緻密さとか、構成とかについての分析は専門家にお任せすることにして、私はただただ『朝食べたすき焼きのような』羊の木初回上映のときに考えたことをそのまんま書こうと思います。

人について

ほんとに人の顔を覚えられないので北村一輝さんとか優香さん、松田龍平さんですら、スタッフロール見るまで気づかず、あ、道理で演技がうまいはず……と思ってました。でもそういう知識がなくても、演技がみなさん素晴らしいんですよ。まぁ、だいたい共演者の演技はうまいって言いますよね、そりゃあプロですもの。贔屓目も入っちゃいますもの。ただ本当に、今回の羊の木出演者は職人の集まりみたいで、個人的に大好きでした。なので、『もし知らない土地でもう一度1からやりなおすなら~』の答えはすごく『らしい』なと思いました。泥棒役者はものすごく暖かかったんです。家族みたいに、みんなのために良い演技をしたいと、一緒に良いものを作り上げたいという気持ちに溢れていました。舞台挨拶でもまるちゃんまるちゃんと、気をつかいあいながら、仕事を越えた関係を築いているのが伝わってきました。1つのケーキをみんなで作り上げたイメージです。では羊の木は?というと、私はGODI...VAののチョコレート詰め合わせみたいだなと感じました。一粒一粒に価値があって、決して混ざりあわない感じです。……伝わりますかこれ?(笑)
月末さんは無個性です。普通の人がヒーローになることもなく、ずっと当たり前を生きています。そんな普通の人が受刑者として名演をみせる人たちと同じケースに普通に存在している。実は全く奇妙なことだと思いますが、錦戸さんは違和感なくそこにいましたね。バンドシーンはアイドル漏れていましたが。
舞台挨拶では、共演者の皆さん、錦戸さんを上げるでもなく下げるでもなく、ただただ一人の俳優として見ているような印象を受けました。アイドルなのにもアイドルだからもありませんでした。逆に泥棒役者の空気はとても丸山さんらしかったです。どちらが良い悪いではなく、どちらの現場の関係性も『らしい』なぁと思いました。二人ともあんまり座長座長していないので、二人が空気を作ったというより、映画が二人に寄ってるのかもしれない……。
あとは、キャストの人間性が映画のキャラに非常に近いことに驚きました。監督や脚本家は人を見て映画を作り替えたんじゃないかなと思うくらいでした。(脚本家さんが『配役が具体化してからは俳優の持ち味に合わせて加えた台詞もかなりあります』とおっしゃっていて、そうだよね!とそわそわしました。)あれだけの名優さんだから、自分と全然違う役もさらりとこなす方だとは思うんですが、羊の木にある人間の生々しさは、そういうとこからきたのではないかなという気がします。

空気について

私は北陸の出身で、あと数ヵ月で戻る身なのですが、少し帰りたくなくなりましたね(笑) 錦戸さんの気持ちもわかります。日照時間が少なくて、閉鎖的な印象がつきまといます。
海鮮が苦手な錦戸さんに何回も「魚もうまいですし」って言わせてしまいましたが、私自身地元の説明のときに「魚と……魚がおいしいです」と言っているし、他の人からも「魚おいしいよね」しか言われません……ちょっと切なくなってしまいました。
しかし羊の木を撮るのに富山を選んだのは絶妙ですね。よく閉鎖的な村というと岐阜や長野の山村とかがとりあげられるかなと思うんですけどね。
最近は日照時間増えたみたいですが、相変わらず雨雷自体は多いのでどうしても暗いイメージになります。あのスコールのシーンは笑ってしまいました。あんな雨が無いとは言えないですね……。
話がそれましたが、私はこの映画、ずっとグレーの映画だと思いました。(錦戸さんが「グレーの濃度を大事にする監督」と言っているのを見てぞくぞくしました。)この映画は灰色の濃淡でできてる気がします。映画を、オチがない……?と思って見ているとフランス映画だったりするんでするけど、なんとなく羊の木もそういう曖昧模糊としたジャンルの映画なのかなという印象です。サスペンスとかだとまぁ終わりが後味悪くても、多少感情を揺さぶられる場面があるイメージなのに対し、羊の木は淡々としています。話は進んでるのにずっと後ろに何か得たいの知れないぼんやりとした不安があって、それが最後までいるんです。お前なんやったん……?という不思議な気持ちだけが残ります。でもその空気は押し付けがましくない。富山の気質にはそういう、ドライな部分とじめっとした部分があるので、映画の雰囲気は富山でしか出せなかったと思います。というのは少し地元愛が強すぎますかね?(笑)
さらに羊の木、背景がまぁ印象に残りません。私だけかもしれませんが……。ここも泥棒役者のカラフルな小道具とは対照的な気がします。世界観を含めて魅せた泥棒役者と、空気だけに留めて人を魅せた羊の木。羊の木では監督の『映画は俳優を見るもの』という指針が透けて見えたようでした。
羊の木、個人的には怖くはなかったです。最後の首締めのシーン、像が落ちてくるシーン、お父さんに何で惚れたのかわからない太田さん、淡々と埋め続ける市川さん、違和感のあるとこはひょっとしたらたくさんあるのかもしれないですけど。理論で割りきることのできないいろんなものを、灰色の空気で包んで、そういうこともあると受け入れさせる仕上がりだと思います。空気を味わう映画です。消化不良というより、味の薄くなったガム噛んでるみたいです。満足はしてるけどまだ味ある気がして噛んじゃいます。

錦戸さんについて

ドラマや映画自体にひかれないと作品を見ない人間なので、ウチの夫は~は半分くらいしか見ていませんでした……すみません錦戸さん……。しかし羊の木を見ているときにぼんやりと錦戸さんほんとにハリウッド行くかもなぁと思いました。事務所の力添えはあるかもしれませんが、行っても浮かない実力があるんじゃないかなぁ。あんなに音楽で個を出す錦戸さんが、あんなに顔の濃い錦戸さんが、演技ではさっと自分を消せるんです。器用だなぁと思います。私は視覚記憶が弱いのであれですが、また見返して、錦戸さんをじっくり味わいたいですね。錦戸さんの持つ焦燥感も雰囲気作りに一役買ってるのかもしれないし。

たぶん羊の木は誰とも共有できない、一方通行の映画なんだと思います。本当に泥棒役者と対照的です。もちろん泥棒役者も好きですが、私はこの絶妙なバランスの羊の木も映画としてとても好きですね。錦戸さんは人のアドバイスを聞かないと言っていましたが、空気から感じて自分で学びとることができる人だと思います。きっと一緒に仕事をした人たちからたくさんのことを感じたことでしょう。これからせごどんでも錦戸さんの演技が見られるのが楽しみです。

最後に、子どもがのろろの遊びをしてるシーンでjukeboxの24時間共同生活思い出した人はいませんか?これは共感がほしいです(笑)

(以下2018/2/4追記しました!)

羊の木の物語について

さてこちらわたしがツイッターのアカウントでフォローしてるしんさん (ネタバレアカウント:@nnnnshi_bare)、まこさん、あとナガさんという方の映画考察記事を参考にして、羊の木のよくわからないあいまいなものについて、しんさん巻き込んでこねくりまわした数時間の記録になります。夜中に……全然錦戸さん関係ないですけど……

私は昨日の感想文でぼんやりとした不安と言いましたが、それを「怖い」と感じる人はたくさんいます。こうやってまとめようとおもったのは、しんさんが言葉にしてつぶやいたその理由の一部に、わたしもはっとさせられたいうところから始まっています。羊の木は伏線の映画ではなく、隠れないでそこにずっとあるものを認識できるかできないかという映画なんじゃないかなと思います。霊感の有無みたいな感じで、気づける人と気づけない人がいるだけの映画です。私は何かあるなとは思いつつ、あんまり見ようとしないでスルーするタイプの人間でした。まぁそれも一種の楽しみ方だとは思います。

さて、改めて物語を考えてみようと思ったときに、私が一番意味がありそうだなと思ったのは羊の木の本数でした。漫画だと四本、映画だと五本。わざわざ変えた理由はなんだろうな、と不思議だったんです。
ぱっとでてきたのは受刑者の数でした。しかしこれは六なので、一人足りません。栗本さんが特殊な立ち位置(再生を象徴、皿の持ち主)なので除外されてるのかなと思ったのですが、しんさんが「羊の木の意味合い的に違う気がする」とおっしゃっていたので再考することに。「悪人でも更正はできるという羊の木→死んだらその輪から外れるのでは?」というしんさんの発想をもとに改めて見直しました。そもそも死んだのは何人でしょう。私は、まこさんの記事にあった舞台挨拶の監督コメント『宮腰が死んだと思いましたか?』という言葉がすごく印象的で。

そういえば特に宮腰さんの生死についての言及はなくて、実際死んだという場面はないなあと思ったわけです。じゃあ確実な杉山さんが除外者、残り五人が羊かな。と仮説をたてたところで今度はこちらの記事を発見しました。

いやいやもうこれでいいじゃんめっちゃ納得したわと思いました。読んでもらえばとても腑におちるであろう考察です。六人に床屋のおじちゃん(前科者)を加え、街になじもうとしてる五人が羊だという仮説、のろろさまが神の子であるという仮説、あ~~~そうか~~~くやしってなりました。 最後の宮腰さんの上に落ちてきたとことか、自らの命を犠牲にしての断罪、そして復活、街の人ののろろさまの扱いの移り変わりとか。確かに神様というよりキリストっぽいなぁ。偶像崇拝は禁止されてるからもしのろろさまが神様だったら像があることがおかしいので、そことも繋がります。……あ、でも見てはいけないということはやっぱり神様なんだろうか。とにかくはっとさせられ、もっと考えたくなる記事でした。ありがとうございます。

まあ、ここからあえて自分の意見を書くならば、私はやっぱり、監督さんのコメントが引っ掛かります。記事では宮腰さんと杉山さんが死んで、自分に適した世界へ行くことが救済だったと考察されているんですが、宮腰さんが死んだとは劇中では触れてません。あと、二人が崖から落ちると一人は必ず助かり、一人は沈んだまま死体もあがらないという言い方。生きるとも死ぬともつかない存在になる一人となった宮腰さんは果たして羊としてカウントされるのか?されないとしたらどういう扱いになるんでしょう。しかしパンフでは短期間で2名が命を落とし~って言ってるのでやっぱり死んでると考えていいのかな……ああわからない、わかりません……
でも、二人が死んだとして考えてみても別の視点でまた面白いんです。しんさんからの情報で一番ゾクゾクしたのは最後のエンディング、『死は終わりじゃない』についてで。綺麗なんですけどちょっと不気味な曲でしたよね。私はチャーリーと.チョコレート工場思い出しました。これ『殺人者の歌』というアルバムに収録された曲なんだそうです。
eiga.com
死は終わりじゃないと歌う人は、殺人者。
「死は終わりじゃない=死んだ二人も救われる」そんな綺麗なものでしょうか?
これは神様の救済という宗教的な美談でしょうか?
杉山さんを送った宮腰さんはもちろん殺人者ですけど、宮腰さんがもし亡くなってるならば、それを送った神様、もといのろろ様もそうなります。そんなことを考えていると神様ってなんだろうという気持ちになります。死んだら極楽浄土に行ける、という慈悲の心由来だとしても、人を殺すならば、神様は殺人者と何が違うんでしょうね。哲学C評価の自分にはわかりませんが……。

私はやっぱりこの映画は灰色の映画だと思うんです。神様の救済によって死んだ二人は別の形で救われるという綺麗なお話になりきらないグレーさが、まだありそうだなという気がします。社会の問題も人間も、いろんなことが当たり前に曖昧です。私がそう思いたいだけかもしれません(笑)
あとしんさんのお友だちの感想で、『最初に芽吹いたところに埋まっていたのが魚だとしたら、のろろの木が生えちゃうね』というのがあったそうなのですが、まさしくそうじゃないですか?最後にのろろさまは海から引き上げられて復活しているんですよ。さらに埋められた鳥を杉山さん、少し離れたとこに埋められた亀を宮腰さんと考えてみると……?いやはやもう一回見たいです……

これだけいろいろ言いましたが、監督は考えてほしくて見てほしいというより感じてほしいのかなという映画です。考えてくれてもいいよ、まぁ材料はあるだけだよ。謎解きメインじゃないから、ひょっとしたら演者も気づいてないのかもしれない。だから、この記事も正解でもなんでもない、楽しみかたのひとつです。私は邦画をあまり見ないし、映画も有名どころしか見ないので、検討違いのことを言ってるかもしれませんが……羊の木は『深い』んですけど、その深さが異質な映画なんだと思います。そしてこういうタイプの映画は珍しい気がしています。よく見るサスペンスよりも、ぼんやりしている気がしました。だからこそこれかなと思ったときのゾクゾクは半端なかったです。なのでみなさんパンフレットを買ってもっと深読みして、映画としてもこの羊の木を楽しんだらいいんじゃないかなあと思います。しかし深読みせず、ぼんやりとした気持ち悪さを抱えるのも正解の一つなのでしょうね。
以上、追記感想でした!

関ジャニの冠番組について考える

 人がジャニーズに興味を持つきっかけはなんだろうか。音楽、ドラマ、映画、ラジオ。何に魅力を感じるかによって、それは様々だと思う。しかし興味を持つ前に特典のついたオタク向けのCDを、ファンクラブに入っている人しか取れないコンサートのチケットを、手に入れる人はごく少数であるはずだ。(布教者によって手に入れる人もいるかもしれない)

  ジャニーズの界隈はとても閉鎖的である。入ってしまえば楽しい。自分が好きな人の魅力を同じようにわかり会える人たちがネット上にはたくさん存在する。ただ、その閉鎖的な世界に足を踏みいれるきっかけ自体は、私たちの日常と繋がっていることが多い。ジャニーズのグループからグループへ移る人たちは「男性アイドルにはまる自分」には抵抗がないかもしれない。しかし、そうではない私にとって、日常との繋がりなしにいきなりジャニーズにはまることは、至難の業だったと思う。

  現在関ジャニを冠し、関ジャニとして持っている地上波の番組は4つである。私たちはお金を払わずに毎週新しい彼らの姿を見られる時間が保証されている。あまりにも、特に箱推し勢にとっては、福利厚生が過ぎやしないだろうか。ローカル番組が多いことを考えてもお釣りがくるのじゃないだろうか。*1

  今回そんな4つの番組の特色や魅力について考えて、自身の幸せについて鑑みていこうと思う。

 

ジャニ勉

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 今年のジャニ勉のニュースはなんといっても大幅なリニューアルに尽きる。2007年5月2日の番組開始から10周年を迎えた第496回、ジャニ勉は番組スタイルをガラリと変えた。このとき500回記念八丈島はどうなると不安に駆られたが、案の定現在まで行われていない。*2

 「今」を肯定していくオタクとして生きていきたい私だが、正直に言えば旧ジャニ勉が好きだった。番組自体のゆるい雰囲気も、ミニコーナーのテロップやセットのダサさも、毎回異なる私服のような衣装も、日常のすぐそばにあるような温かい雰囲気も好きだった。ゲストが話している間も後ろで別の話に興じたり、じゃれあったりしている彼らの姿を、ストーカーさながらに探し回り、その自然な関係性に心躍らせた。(テロップ素材も豊富だった。)既に身内では安心安定のジャニ勉として定着していたものを壊すことに、手放しでは喜べなかったファンも多いかと思う。私は失って初めて日常の大切さを知った。

 新ジャニ勉には、指差し道、2/∞とオタク心くすぐるミニコーナーもあるが、肝心の本編はかたい会話になりがちな印象を受ける。「ゲストから学ぶ」ことがコンセプトだったはずのものを頑固道と切り捨て、主張を連発するがための圧の強さ、あまり興味をそそられない一般人の頑固道。ソファが仕切られているために、いちゃいちゃがとんでもないレアシーンになっていることも個人的には悲しい。身体の向きが近かっただけで一日中そのシーンを再生するなんて、旧ジャニ勉では考えられなかった。

 しかし彼らもといスタッフは番組一新という形に踏み切った。クロニクル、関ジャムといった番組が台頭する中で、ジャニ勉だけが長寿ローカル番組という地位でやっていくということも(少なくともしばらくは)できたはずである。けれども、2017年の関ジャニの挑戦性に見合うように、ジャニ勉も躍進目指してその地位を捨てた。私服もテロップもいちゃいちゃも捨てた。製作者側から見たジャニ勉の強みは『トーク』だった。彼らのゲストを不快にさせないトーク力、自分たちで会話を作る、回すという感覚は、ジャニ勉無しには育まれなかっただろう。関ジャムが音楽、クロニクルがバラエティ、というように、ジャニ勉はトークに的を絞ってスペシャリストになろうとした、もといしているのだと思う。十年も続いてきた番組、それでいて変化を恐れない番組。「前の方が良かった」と嘆く思いが皆無とは言えないが、来年再来年にもっと良い方向に進化していくことを見守っていきたいという心境である。

 

関ジャム

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 関ジャムは全国規模で放送されている番組だ。日曜の深夜というサザエさん症候群もびっくりの時間帯だが、それでも夜な夜なオタクが引き寄せられる魅惑の番組である。

 関ジャムの2017年ニュースはなんといっても番組名を冠したアルバム発売とツアー開催だ。私は音楽を知らない。ピアノを習っては発表会が嫌で辞めるということを幼少時に3回繰り返して以来、楽器というものに触れていないし、曲解説の文章も「……なんかわからないけど良い曲なんだな!楽しみ!!」というハッピーな思考回路で読んでいる。そういう私にとって関ジャムは世界一受けたい授業の音楽の時間だ。音楽の専門知識はなにもないけど、それを馬鹿された気分を味わったことが一度もない。ジャンルは幅広く、出ているゲストも楽しそうに嬉しそうに話をしていて、音楽の幸せを体現していると思う。

 ジャムセッションほど関ジャニのファンは恵まれていると実感する瞬間はない。あのアーティストの歌を歌ってほしい、あのアーティストとコラボしてほしい、そんな要望は関ジャニファンにとって十分に現実たりうることだ。夢の時間が毎週やってくることが冷静に考えると異常で、その事実を見つめなおす時、私は毎回胸の奥が熱くなってくる。ジャムセッションは、音楽に対する関ジャニの瞬発力と応用力の高さで成立している。あんなに他の仕事をこなしながら、他人の曲を弾けるようになって、彼らは私たちに夢を魅せてくれる。そういう彼らを見ていると翌日の月曜日がナンボのもんじゃいという気になってくるのだ。*3

 コラボだけでなく、楽曲提供が盛んに行われた今年。アルバムジャムは本当に豪華であった。関ジャニの人柄や姿が映るような曲が多く、ジャムでの人のつながりを感じさせた。鳶谷さんの曲DO NAIや、岡崎体育さんのえげつないはまさにそういう想いに応えた曲だと思う。この番組が無ければ今年のメトロックへの参加もバンドへの高い評価もなかっただろう。関ジャニの音楽は今や関ジャム無くして語れない。

 彼らがメトロックでアイドルバンドとしてのNOROSHIをあげたとき、「アイドルなのに」という評価が不満だという言葉が渋谷さんから漏れた。しかしジャムで共演した人たちは確実に「アイドルなのに」というところから、「アイドル」自体を尊敬するようになっていく。アイドルのすごさ、音楽のプロのすごさ、互いに対するリスペクトが、2018年も美しい形で連なってジャムになっていけばいいと思う。

 

クロニクル

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 ギャラクシー賞の受賞に、特典としての撮り合いメイキング。SNSでのパスポート取りたいんです。今年もクロニクルは躍進した。一般人が何かを好きになる時、やっぱりバラエティがその普遍性から受け入れやすいのではないかと思う。何を隠そう*4、私自身が関パニというバラエティで関ジャニにハマったオタクである。

 私が特に好きなのは、英会話伝言ゲーム、いきなりドッヂ、イケメンカメラ目線スポーツ、VSプロスポーツ選手等々、まあだいたい全員出ている企画なのだが、一番好きなのが「なんとか成立させろ記者会見」である。即興で応じなければならないというところは、トガキに通ずるものがあるが、こちらはトガキすら自分たちで作らなければいけないようなものである。彼らは面白い。単純にドッヂボールや伝言ゲームをやっているだけで自然な笑いが生まれる。しかし、なんとか成立させろは限られた条件下で、瞬時に、自分たちの組み立てで、面白いことを言わなければならない、と実は多くのことを要求されている点で、別角度から関ジャニのお手並みが拝見できる企画といってもよい。これを2017年に一度もやらなかったことに対し私は本当に歯ぎしりのする思いである。

 そんな面白い企画に溢れたクロニクルであるが、彼らはただ面白いだけではなく、面白いを「作る」こともできるというのを証明したのがトガキクロニクルである。プロデューサーインタビューを読んだ時に、横山さんによるジャム特典の没企画救済措置であったことを知り、セルフプロデュース力の高さに脱帽した。彼のプロデュース力は神番組クロニクルでも生きている。ファンが購入する撮り合いメイキングは、ファンが大好きな「わちゃわちゃ」がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。まさに適材適所の采配で、横山さん並びにスタッフさんの判断には敬服することしきりであった。

 さて、クロニクルは企画を山のように生み出す。つまり新企画のスパンがとても短い。何を放送するかは一時的な視聴率や反響よりも、何か別のものを優先している気がする。(でなければ成立させろ記者会見が放送されない理由が分からない。)これをやったら面白いのではないかという発想と、新しい魅力をというエネルギーに溢れていて、関ジャニと共に今を駆け抜けている。そのため私は、なんとか成立させろの再演を心待ちにしている一方で、この勢いのまま、いけるとこまでアイデアの弾を撃ち尽くしてほしいとも思っているのである。

 

ペコジャニ

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 この三大勢力に秋から割って入ったのがペコジャニである。関ジャニじゃなくてもいいのではと疑問が浮かぶ番組になると思っていた視聴者の予想を見事に裏切り、とんでもないダークホースと化している。

 まず食べ物で食欲が刺激されるし、(語弊があるかもしれないが)かわいいかっこいい自担に性欲が刺激される。人間は三大欲求のうち二つが満たされると幸せと感じるので、もうこの辺で既に本能に訴えかけているようなものであり、ずるいとしか言いようがない。第6回が放送されている今現在、錦戸さんが好きそうなものしか出てきておらず、このままいくと錦戸さんがレギュラーから外れるか番組が終わるかの選択を迫られるのではないかという懸念はある。

  時間帯も関ジャムをひきずって始まる月曜日のオアシスだ。そしてなんといっても全国地上波、22時開始。実際大抵のファンはおなかいっぱいでこの番組を見ることになるので心穏やかに美しいかわいいかっこいい顔を拝めるし、外出組が十分に帰宅できる時間だし、終わっても23時と寝るのにちょうどいい。茶の間やTLでわいわいと実況しながらテレビを見る醍醐味を存分に味わえる温かさがある。

 クロニクルもそうだが、ペコジャニもフットワークが軽い。特番では横山さん一人だったプレゼンターが、毎回二人で食材探しにロケに行くという形に改変にした。さらに五回にしてなんとメンバー全員が食べられるにも関わらず、ゲストが食べられないという破天荒な展開を見せている。台本があるかどうかはどうでもいい。台本を感じさせない型破りな姿を見せてくれるのが嬉しいのだ。私は毎日彼らに驚いていたい。

 ペコジャニは食べられない視聴者のためにもリアクションでそのおいしそうな雰囲気を出さなければならない。実際、彼らは食べ物に「うわ~~~~っ」と興奮するし、私は彼らの表情に「うわ~~~~っ」と興奮する。食べられなければ彼らは「く~~~~~っ」と悔しがるし、私も彼らが食べられなかったことに「く~~~~~っ」と悔しがる。番組の狙いとは若干ずれているかもしれないが、理由はともかく、私は関ジャニと同じ表情を浮かべながら番組を楽しんでいる。そういう一体感もまたペコジャニならではかもしれない。

 


訂正:『第一回の一般人投票を、なんの予告もなく第二回ではさらりとやめていた。』と記載していましたが、初回のみということで予告はあったようです。ご指摘ありがとうございました!

 

 

  ドラマや映画、舞台はもちろん関ジャニに気づくきっかけたりうるが、公開・放送の期間が数ヵ月と短いのがネックである。音楽特番やゲスト出演番組もあるが、こちらも単発で、アイドル性を売りにしているCDの購入やコンサートの需要に一気に向かうかと言われると多少疑問が残る。

  認知の向上、少しの興味の熱量を引きあげ、ファンに突き落とすマーケティングとして、なんといっても現在のファンを飽きさせない手段として、地上波の番組に恵まれていることをありがたく思う。今年はビッグニュースがたくさんあり、いろんな活躍が見られたが、それを支えて能力を育て続けているのが冠番組である。関ジャニの複数人での面白さは以前の記事でも取り上げたが、7人という人数でかなりの多忙にもかかわらず、これだけのグループとしての番組を持っていることが改めてありがたいなと感じた次第だ。

 私たちの日常にさりげなく入り込んでいる彼らの姿に「あ、いいな」の瞬間が訪れる。来年もそんな人がたくさん生まれますように。

 

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素材:遊戯王カードリスト・評価・オリカ(https://yugioh-list.com/

ロゴ:関西テレビテレビ朝日、フジテレビ、TBS

よりお借りしました。(敬称略)

*1:そもそも払っていない

*2:まだ終わってないニャー!

*3:ただし見ている間に限る

*4:むしろ全力でアピールしてきた

あいうえお作文で丸山さんの魅力を語る

丸山さん、34歳のお誕生日おめでとうございます。泥棒役者ラッシュでかっこよくてかわいい丸山さんに浮かされている今、冷静に文章を書けずに何度も手が止まりつつ、あいうえお作文で丸山さんの好きなところを書きました。

るちなうたごえ

わたしは(少なくとも今までに聞いたことのある)男性の声の中で、丸山さんの声が一番好きです。世界で一番好きです。関ジャニの歌を初めて聞いたとき、この声を出してる人は誰だろうってすごく知りたくなったのが丸山さんです。丸山さんの声には、感情が載っています。ジャムレディの4フレーズに、あれだけキャラクター性と感情を色付けられる人を私は知りません。コメディアンは演技がうまいと言われます。丸山さんも、コメディアン的な性質を持っているから、声だけで歌に感情をのせられるのかもしれません。いろんな意見もあるとは思うのですが、私は関ジャニのメンバーと歌っている時の丸山さんの声が好きです。個性豊かなメンバーの中で、はっとさせられるほど透明感があって柔らかくて、丸山さんの声の美しさが一人の時より際立つ気がします。

っくすのぎゃっぷ

ただでさえギャップの多い人ですが、かっこいいとかわいいでこんなに表情が違うのはすごいと思います。そもそも丸山さんは骨格もしっかりしていて、スタイルもよく、身長もあり、男性としての魅力に溢れています。だからこそ、「かわいい丸山さん」を作ってるのは表情の部分が大きい気がします。デビュー直後くらいの丸山さんを見ているとクールでしゅっとした出で立ちで、今ほど笑っている場面をお見かけしません。今、これだけかわいいと言われる丸山さんは、しぐさや表情からくる、丸山さんの努力の賜物なんだと思います。そして、そのかわいい丸山さんを脱いだ時の表情に、私はただひたすらかっこいいしか言えなくなってしまいます。

さしいひとたらし

みたらしだなぁと思います。丸山さんは、安田さんのような「客観的に些細な現象によく気が付くタイプ」ではないかもしれませんが、人のことを考えるのが好きなのだと思います。対人感情といった点では、良い面悪い面いろんなところに気づいてしまうのではないでしょうか。
この人はどういう人なんだろう、こうしたら喜ぶだろうか、そういったことをワクワクしながら考えられるから、皆を楽しませて笑顔にさせるのが上手なのだと感じます。丸山さんの優しさは、じっと寄り添う優しさでも、強引に背中を押す優しさでもありません。北風と太陽の太陽のように輝いて、暖めてくれてて、自発的に元気を出させるような、剛と柔の中間のような優しさです。その優しさにふわっと引き寄せられて、みんな丸山さんが大好きになってしまうし、そのままそばにいて、甘えたくなってしまうのだと思います。

くつどおりにいかないじぶんのいばしょ

丸山さんは理想が高いのだと思います。そしてできない自分に気づいたとき、立ち止まったり逃げたりしてしまいそうになる。丸山さんは「今は冷静になった」とよくおっしゃいますが、冷静じゃない瞬間が0になったわけではないと思っています。いつも「仕方ない!」と前向きにとらえられるわけじゃないところが、とても人間らしくて、私は好きです。丸山さんは他人に対してポジティブになれる(良いところを見つけるのがすごく上手な)人です。一転、自分のこととなるとネガティブ。それを知っているのが、本番に弱いのも顔が赤くなるのも受け入れてくれるメンバーなんだと思います。丸山さんはきっと一人で頑張り続けることの難しさを分かっています。一人の仕事が留学で、そこから帰ろうと思えるのが、関ジャニのグループメンバーのもとなのかなと思うと、ファンとしてもとても嬉しいです。

ずれないせかい

大倉さんが11/26ラジオにて丸山さんのことを「孤独で泣き虫で寂しがり屋」と評していました。孤独で寂しがり屋というのは、丸山さんの譲れない世界故なのかなぁと思ったりします。アイドル丸山さんにはたくさん受け入れの度量があっても、人間丸山さんには頑固道がたくさんあります。人間丸山さんは臆病で繊細で、自分の世界に人を入れることにすごく慎重だと思います。一方で丸山さんはきっと人が好きなので、アイドル丸山隆平との境目で孤独を感じてしまうのかもしれません。あれだけアイドルを貫こうとしている丸山さんだから、こだわりを言わないことも選択できたでしょう。それでも、めんどくさいと取られそうなこだわりをぽろぽろと言ってしまうのは、心のどこかで人間丸山隆平を受け入れてほしいという小さな願望のように感じたりします。

れしいたのしいだいすき

ベースが嫌いだった丸山さん、ベースを好きになった丸山さん。楽しくなって、ベースが好きになって誉められて嬉しくなっていく過程を見られなかったのは少し残念ですが、今丸山さんがベースと楽しく向き合えていること、何よりうれしく思います。丸山さんはとても人間らしいです。人間好きなことは結構頑張れますが、好きになる前に頑張るのはとても難しいです。そう思うと、「嫌いだったけど最近好きになった」という単純なエピソードの根に、丸山さんの努力や意地のようなものがはっているように感じます。丸山さんは、生き残るため迷惑をかけないためとはいえ、嫌いなものを十年間も、他のアイドルとしての仕事と並行して続けてきました。丸山さんがこれからもっとたくさんの音楽の幸せや楽しみと出会えるよう祈っています。

んなひとをグループに

エンターテイナーとして、皆を笑わせて盛り上げて、変な気持ちにさせるのが好きな人。変な人と思われていたい人。本来の丸山さんの性質を慮っていながら、それでも丸山さんの作る面白さや楽しい雰囲気を欲するメンバーの想いが、丸山さんはとても嬉しいのではないかなと思うのです。メンバーといるときに恐れずに予定調和を乱すことができるのは、きっとメンバーへの信頼感があるからです。楽屋で黙ってるときも、他のメンバーが楽しい雰囲気を作ってくれます。ただ、丸山さんは、それをありがたく受け止める一方で、焦ったりもしているかもしれません。安田さんの面白さに嫉妬したりもしているかもしれません。「変なヤツ」は丸山さんが譲りたくない、努力で築いたポジションだから、疲れてふと休んでも、すぐがむしゃらにギャグを頑張るんだろうなと思います。そんな一生懸命なところが、メンバーも私も大好きで、無理をさせているのではないかと思いながらも変な丸山さんを求めてしまうのです。

つもあいどるで

いつもアイドルでいる、というよりいたい、を感じるのが丸山さん。丸山さんは、器用ではないし、自分でも凡人だと言っていて、だからこそ丸山さんの作り上げたアイドル丸山隆平は魅力的なんだと思います。私は丸山さんの沼『おちゃらけたところとかっこいいところのギャップ』は、『アイドル丸山さんと人間丸山さんのギャップ』に言い換えることもできると思います。発言も行動もいつも私たちに夢を見せてくれる丸山さんが、完璧じゃないからこそ見せてしまう人間の弱さのようなものに、距離がグッと縮まりそうになり、その弱さを隠してアイドルを貫く丸山さんの姿に、やっぱり遠い人だなぁと感じたりします。


あなたと僕と丸山隆平。人間丸山さんが努力して作った信念の結晶であるアイドル丸山さんを、私はまた1年好きになっていくのではないかなと思います。
同じ時代に同じ日本に生まれてくれて、アイドルになってくれて、ありがとうございます。