じゃにずについて考えたり妄想したいだけのブログ

じゃにずの皆様(関ジャニ中心)について、ただひたすら尊敬の念を込めてすげーなすげーななんでだろーっていうだけのブログです。

【ネタバレ】羊の木感想

記憶力がないのですが、ツイッターで書き込んでいるだけではどうも消化不良にいたるので、映画を見たときの脳内をそのまんまメモしておこうと思いました。※()内は書き終えたあとにパンフレットを読んで共感したところです。

もともとミステリーのように淡々と事実を述べて、思考は読者に任せてくれるようなものが好きなので、羊の木はドツボジャンルでした。羊の木の前情報も受刑者で全員殺人犯ということくらいしか知らなかったので、もっと推理ものに近いかと思ってましたがとんでもない『空気で見る』映画でした。(『謎解きというストーリーの面白さで観客を引っ張ろうとしない』という脚本家さんの言葉を拝見して、まさにその空気を感じ取って見れたことを嬉しく思いました。)
私は記憶力がないので、物事を気持ちでしか記憶できないのですが、ありがたいことにこちらの映画の監督が「映画は俳優を見るもの」と言ってくださったので、そういう意味でも感じたことをぼんやりと書き留めたいと思いました。ストーリーの緻密さとか、構成とかについての分析は専門家にお任せすることにして、私はただただ『朝食べたすき焼きのような』羊の木初回上映のときに考えたことをそのまんま書こうと思います。

人について

ほんとに人の顔を覚えられないので北村一輝さんとか優香さん、松田龍平さんですら、スタッフロール見るまで気づかず、あ、道理で演技がうまいはず……と思ってました。でもそういう知識がなくても、演技がみなさん素晴らしいんですよ。まぁ、だいたい共演者の演技はうまいって言いますよね、そりゃあプロですもの。贔屓目も入っちゃいますもの。ただ本当に、今回の羊の木出演者は職人の集まりみたいで、個人的に大好きでした。なので、『もし知らない土地でもう一度1からやりなおすなら~』の答えはすごく『らしい』なと思いました。泥棒役者はものすごく暖かかったんです。家族みたいに、みんなのために良い演技をしたいと、一緒に良いものを作り上げたいという気持ちに溢れていました。舞台挨拶でもまるちゃんまるちゃんと、気をつかいあいながら、仕事を越えた関係を築いているのが伝わってきました。1つのケーキをみんなで作り上げたイメージです。では羊の木は?というと、私はGODI...VAののチョコレート詰め合わせみたいだなと感じました。一粒一粒に価値があって、決して混ざりあわない感じです。……伝わりますかこれ?(笑)
月末さんは無個性です。普通の人がヒーローになることもなく、ずっと当たり前を生きています。そんな普通の人が受刑者として名演をみせる人たちと同じケースに普通に存在している。実は全く奇妙なことだと思いますが、錦戸さんは違和感なくそこにいましたね。バンドシーンはアイドル漏れていましたが。
舞台挨拶では、共演者の皆さん、錦戸さんを上げるでもなく下げるでもなく、ただただ一人の俳優として見ているような印象を受けました。アイドルなのにもアイドルだからもありませんでした。逆に泥棒役者の空気はとても丸山さんらしかったです。どちらが良い悪いではなく、どちらの現場の関係性も『らしい』なぁと思いました。二人ともあんまり座長座長していないので、二人が空気を作ったというより、映画が二人に寄ってるのかもしれない……。
あとは、キャストの人間性が映画のキャラに非常に近いことに驚きました。監督や脚本家は人を見て映画を作り替えたんじゃないかなと思うくらいでした。(脚本家さんが『配役が具体化してからは俳優の持ち味に合わせて加えた台詞もかなりあります』とおっしゃっていて、そうだよね!とそわそわしました。)あれだけの名優さんだから、自分と全然違う役もさらりとこなす方だとは思うんですが、羊の木にある人間の生々しさは、そういうとこからきたのではないかなという気がします。

空気について

私は北陸の出身で、あと数ヵ月で戻る身なのですが、少し帰りたくなくなりましたね(笑) 錦戸さんの気持ちもわかります。日照時間が少なくて、閉鎖的な印象がつきまといます。
海鮮が苦手な錦戸さんに何回も「魚もうまいですし」って言わせてしまいましたが、私自身地元の説明のときに「魚と……魚がおいしいです」と言っているし、他の人からも「魚おいしいよね」しか言われません……ちょっと切なくなってしまいました。
しかし羊の木を撮るのに富山を選んだのは絶妙ですね。よく閉鎖的な村というと岐阜や長野の山村とかがとりあげられるかなと思うんですけどね。
最近は日照時間増えたみたいですが、相変わらず雨雷自体は多いのでどうしても暗いイメージになります。あのスコールのシーンは笑ってしまいました。あんな雨が無いとは言えないですね……。
話がそれましたが、私はこの映画、ずっとグレーの映画だと思いました。(錦戸さんが「グレーの濃度を大事にする監督」と言っているのを見てぞくぞくしました。)この映画は灰色の濃淡でできてる気がします。映画を、オチがない……?と思って見ているとフランス映画だったりするんでするけど、なんとなく羊の木もそういう曖昧模糊としたジャンルの映画なのかなという印象です。サスペンスとかだとまぁ終わりが後味悪くても、多少感情を揺さぶられる場面があるイメージなのに対し、羊の木は淡々としています。話は進んでるのにずっと後ろに何か得たいの知れないぼんやりとした不安があって、それが最後までいるんです。お前なんやったん……?という不思議な気持ちだけが残ります。でもその空気は押し付けがましくない。富山の気質にはそういう、ドライな部分とじめっとした部分があるので、映画の雰囲気は富山でしか出せなかったと思います。というのは少し地元愛が強すぎますかね?(笑)
さらに羊の木、背景がまぁ印象に残りません。私だけかもしれませんが……。ここも泥棒役者のカラフルな小道具とは対照的な気がします。世界観を含めて魅せた泥棒役者と、空気だけに留めて人を魅せた羊の木。羊の木では監督の『映画は俳優を見るもの』という指針が透けて見えたようでした。
羊の木、個人的には怖くはなかったです。最後の首締めのシーン、像が落ちてくるシーン、お父さんに何で惚れたのかわからない太田さん、淡々と埋め続ける市川さん、違和感のあるとこはひょっとしたらたくさんあるのかもしれないですけど。理論で割りきることのできないいろんなものを、灰色の空気で包んで、そういうこともあると受け入れさせる仕上がりだと思います。空気を味わう映画です。消化不良というより、味の薄くなったガム噛んでるみたいです。満足はしてるけどまだ味ある気がして噛んじゃいます。

錦戸さんについて

ドラマや映画自体にひかれないと作品を見ない人間なので、ウチの夫は~は半分くらいしか見ていませんでした……すみません錦戸さん……。しかし羊の木を見ているときにぼんやりと錦戸さんほんとにハリウッド行くかもなぁと思いました。事務所の力添えはあるかもしれませんが、行っても浮かない実力があるんじゃないかなぁ。あんなに音楽で個を出す錦戸さんが、あんなに顔の濃い錦戸さんが、演技ではさっと自分を消せるんです。器用だなぁと思います。私は視覚記憶が弱いのであれですが、また見返して、錦戸さんをじっくり味わいたいですね。錦戸さんの持つ焦燥感も雰囲気作りに一役買ってるのかもしれないし。

たぶん羊の木は誰とも共有できない、一方通行の映画なんだと思います。本当に泥棒役者と対照的です。もちろん泥棒役者も好きですが、私はこの絶妙なバランスの羊の木も映画としてとても好きですね。錦戸さんは人のアドバイスを聞かないと言っていましたが、空気から感じて自分で学びとることができる人だと思います。きっと一緒に仕事をした人たちからたくさんのことを感じたことでしょう。これからせごどんでも錦戸さんの演技が見られるのが楽しみです。

最後に、子どもがのろろの遊びをしてるシーンでjukeboxの24時間共同生活思い出した人はいませんか?これは共感がほしいです(笑)

(以下2018/2/4追記しました!)

羊の木の物語について

さてこちらわたしがツイッターのアカウントでフォローしてるしんさん (ネタバレアカウント:@nnnnshi_bare)、まこさん、あとナガさんという方の映画考察記事を参考にして、羊の木のよくわからないあいまいなものについて、しんさん巻き込んでこねくりまわした数時間の記録になります。夜中に……全然錦戸さん関係ないですけど……

私は昨日の感想文でぼんやりとした不安と言いましたが、それを「怖い」と感じる人はたくさんいます。こうやってまとめようとおもったのは、しんさんが言葉にしてつぶやいたその理由の一部に、わたしもはっとさせられたいうところから始まっています。羊の木は伏線の映画ではなく、隠れないでそこにずっとあるものを認識できるかできないかという映画なんじゃないかなと思います。霊感の有無みたいな感じで、気づける人と気づけない人がいるだけの映画です。私は何かあるなとは思いつつ、あんまり見ようとしないでスルーするタイプの人間でした。まぁそれも一種の楽しみ方だとは思います。

さて、改めて物語を考えてみようと思ったときに、私が一番意味がありそうだなと思ったのは羊の木の本数でした。漫画だと四本、映画だと五本。わざわざ変えた理由はなんだろうな、と不思議だったんです。
ぱっとでてきたのは受刑者の数でした。しかしこれは六なので、一人足りません。栗本さんが特殊な立ち位置(再生を象徴、皿の持ち主)なので除外されてるのかなと思ったのですが、しんさんが「羊の木の意味合い的に違う気がする」とおっしゃっていたので再考することに。「悪人でも更正はできるという羊の木→死んだらその輪から外れるのでは?」というしんさんの発想をもとに改めて見直しました。そもそも死んだのは何人でしょう。私は、まこさんの記事にあった舞台挨拶の監督コメント『宮腰が死んだと思いましたか?』という言葉がすごく印象的で。

そういえば特に宮腰さんの生死についての言及はなくて、実際死んだという場面はないなあと思ったわけです。じゃあ確実な杉山さんが除外者、残り五人が羊かな。と仮説をたてたところで今度はこちらの記事を発見しました。

いやいやもうこれでいいじゃんめっちゃ納得したわと思いました。読んでもらえばとても腑におちるであろう考察です。六人に床屋のおじちゃん(前科者)を加え、街になじもうとしてる五人が羊だという仮説、のろろさまが神の子であるという仮説、あ~~~そうか~~~くやしってなりました。 最後の宮腰さんの上に落ちてきたとことか、自らの命を犠牲にしての断罪、そして復活、街の人ののろろさまの扱いの移り変わりとか。確かに神様というよりキリストっぽいなぁ。偶像崇拝は禁止されてるからもしのろろさまが神様だったら像があることがおかしいので、そことも繋がります。……あ、でも見てはいけないということはやっぱり神様なんだろうか。とにかくはっとさせられ、もっと考えたくなる記事でした。ありがとうございます。

まあ、ここからあえて自分の意見を書くならば、私はやっぱり、監督さんのコメントが引っ掛かります。記事では宮腰さんと杉山さんが死んで、自分に適した世界へ行くことが救済だったと考察されているんですが、宮腰さんが死んだとは劇中では触れてません。あと、二人が崖から落ちると一人は必ず助かり、一人は沈んだまま死体もあがらないという言い方。生きるとも死ぬともつかない存在になる一人となった宮腰さんは果たして羊としてカウントされるのか?されないとしたらどういう扱いになるんでしょう。しかしパンフでは短期間で2名が命を落とし~って言ってるのでやっぱり死んでると考えていいのかな……ああわからない、わかりません……
でも、二人が死んだとして考えてみても別の視点でまた面白いんです。しんさんからの情報で一番ゾクゾクしたのは最後のエンディング、『死は終わりじゃない』についてで。綺麗なんですけどちょっと不気味な曲でしたよね。私はチャーリーと.チョコレート工場思い出しました。これ『殺人者の歌』というアルバムに収録された曲なんだそうです。
eiga.com
死は終わりじゃないと歌う人は、殺人者。
「死は終わりじゃない=死んだ二人も救われる」そんな綺麗なものでしょうか?
これは神様の救済という宗教的な美談でしょうか?
杉山さんを送った宮腰さんはもちろん殺人者ですけど、宮腰さんがもし亡くなってるならば、それを送った神様、もといのろろ様もそうなります。そんなことを考えていると神様ってなんだろうという気持ちになります。死んだら極楽浄土に行ける、という慈悲の心由来だとしても、人を殺すならば、神様は殺人者と何が違うんでしょうね。哲学C評価の自分にはわかりませんが……。

私はやっぱりこの映画は灰色の映画だと思うんです。神様の救済によって死んだ二人は別の形で救われるという綺麗なお話になりきらないグレーさが、まだありそうだなという気がします。社会の問題も人間も、いろんなことが当たり前に曖昧です。私がそう思いたいだけかもしれません(笑)
あとしんさんのお友だちの感想で、『最初に芽吹いたところに埋まっていたのが魚だとしたら、のろろの木が生えちゃうね』というのがあったそうなのですが、まさしくそうじゃないですか?最後にのろろさまは海から引き上げられて復活しているんですよ。さらに埋められた鳥を杉山さん、少し離れたとこに埋められた亀を宮腰さんと考えてみると……?いやはやもう一回見たいです……

これだけいろいろ言いましたが、監督は考えてほしくて見てほしいというより感じてほしいのかなという映画です。考えてくれてもいいよ、まぁ材料はあるだけだよ。謎解きメインじゃないから、ひょっとしたら演者も気づいてないのかもしれない。だから、この記事も正解でもなんでもない、楽しみかたのひとつです。私は邦画をあまり見ないし、映画も有名どころしか見ないので、検討違いのことを言ってるかもしれませんが……羊の木は『深い』んですけど、その深さが異質な映画なんだと思います。そしてこういうタイプの映画は珍しい気がしています。よく見るサスペンスよりも、ぼんやりしている気がしました。だからこそこれかなと思ったときのゾクゾクは半端なかったです。なのでみなさんパンフレットを買ってもっと深読みして、映画としてもこの羊の木を楽しんだらいいんじゃないかなあと思います。しかし深読みせず、ぼんやりとした気持ち悪さを抱えるのも正解の一つなのでしょうね。
以上、追記感想でした!